障害者目線でもやはり"愛される障害者"を目指すべきだと思う

"愛される障害者"

こんなワードがTwitterのタイムラインに流れてきた。

これを見て、私は真っ先に24時間テレビを思い出した。24時間テレビでは、純粋な心を持ち、目標に向かってひたむきに努力する"愛される障害者"ばかりが描かれる。

障害者は人間らしい汚い感情を抱くことは許されず、愛される存在でいることでしか生産性を生まない、健常者にとってはそういう存在なんだろう。そうやって障害者の存在が消費されていくことに、私は心底嫌悪感を覚えた。


しかし考えてみれば、障害者目線でもやはり"愛される障害者"になるしかないと思うのだ。

障害者は、人の助けが無ければ生きていけないから"障害者"なのである。
そして、助ける側が人である限り感情が介在することになり、その人の感情を害すれば、自分の身に危険が及ぶ可能性があるからだ。


これは健常者にとっても他人事ではない話である。
年を取れば身体が動かなくなり、人の助けが無ければ生きていけない、障害者と同じような状態になるかもしれない。

もしあなたが介護する立場であれば、穏やかで感じの良い老人と不機嫌で口うるさく感じの悪い老人なら、どちらを丁寧に扱うだろうか。

おそらく多くの人は前者を選ぶだろう。
後者は自力で動けないのをいいことに、下手すれば暴力をふるわれてしまう可能性もある。


自分ではコントロールできない病気によって、精神が不安定になったり、周りに暴力を振るったりするような症状が現れ、"愛される障害者"を演じるキャパシティーが無くなってしまうという例外はあると思う。

それでも、やはり介護をする側が人である限り、愛される努力をしておいた方が絶対に得なのだ。

もちろん、介護者はそれが仕事である以上、相手が"愛される障害者"であろうとなかろうと真摯に対応する義務がある。
しかし、介護者も人間である以上感情がある。介護者の感情を逆撫でして暴力を振るわれでもすれば、障害者は抵抗できないだろう。

障害者が介護者のご機嫌取りをしなければいけないのはおかしい、といはよく分かる。しかし、介護者と障害者は物理的に対等ではないのだ。

仮に、介護が全て機械化され、障害者が全く人の手を借りなくても生きていける世の中になれば、"愛される障害者"になる必要はないだろう。
しかし、現代においては介護の多くが人の手で行われているのが現状である。

ちなみに私はADHDと自閉症スペクトラム障害を抱えているが、やはり仕事では周りに迷惑をかけてしまうことが多い。それでも周りに助けてもらうためには、「この子はちょっとドン臭いけど、悪い子ではないんだな」と思わせる"愛されキャラ"を演じなければならないと強く感じたものだった。


また、ツイッターで「そもそも人間は無条件に愛されるべきであるのに、障害者だけが愛される努力を強いられるのはおかしい」という旨のツイートを見かけた。

私は「人間は誰しも愛される価値がある」という言説は錯覚だと思っている。

正しくは「大半の人は、特別な努力をしなくても愛されるだけの能力が生まれつき身に着いている」ということである。
世の中の大半の人は、他人を不快にさせないレベルの容姿があって、他人を不快にさせないコミュニケーションを自然と取ることができる。しかしあくまでも大半の人なので、そうじゃない人も少数だが存在するのだ。


私が小中学生の頃、同じ学年に知的障害のある子がいた。
時々通常学級の生徒と一緒に授業を受けたりすることがあったが、みな彼を避けた。
彼はあまり何を言っているか分からなかったし、人に急に抱きついてきたりすることもあった。

当たり前のことだが、付き合うメリットが無い人や、自分に害を与える恐れのある人とは誰も関わろうとしない。
彼は少なくとも、クラスメイトには愛されていなかったように見えた。


最初に述べたように、"愛される障害者"というワードに違和感を感じるのはすごくよく分かる。

それでも人の助けが無ければ生きていけない障害者ほど、"愛される障害者"を演じることが生きる上で重要なスキルになるのだ。

1番理想的なのは"愛されなくても生きていける障害者"を目指すことだろうが、それが叶うかは分からないし、愛される人でいた方が得なのは健常者も同じである。
綺麗事抜きで、"愛される障害者"を目指す努力は必要だと私は思う。




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