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褐色細胞腫闘病記 第29回「光を纏うひと」

入院患者は別の患者の寝ているICUには入れない。
そんなことはわかっていたけれど、駆け付けずにいられない。
ICUの出入り口で芳河さんのご家族が一斉に私を迎える。

「三島さん、ここで待っていてください。三島さんがここに来ていることは祐子に伝えます」
そうだ、手紙くらい書いて来ればよかった。とても後悔する。
弟さんが私の気持ちを察したのか、ポケットからレシートのような紙切れとボールペンを出して差し出してくれる。
「ここに一言、お願いします」
無言でそれを受け取る。

私は明後日退院してしまう。
いや、そのほうがいいのかもしれない。ここに〈患者〉として入院している限り、私はICUには絶対入れない。〈見舞客〉としてならなんとか許可を得て会えるかもしれない。
私は急いでボールペンを走らせる。

「しゅじゅつ、おつかれさま。おうえんしてるからね」
ああ、なんてことだ。平仮名しか出てこない。もっと気の利いたこと書けないのか。でも早く渡さないといけない。
私はえらく狼狽しながらメモを二つに折って弟さんに託す。
もう「頑張れ」とは書けなかった。だってもう、あれ以上何を頑張ればいいというのか。

すべての腸が壊死した?
私が背中を撫でて続けていた間、和紙に染みが滲むようにゆっくりじわじわと芳河さんの内臓は死に絶えていったというのか。
それはいったいどんな痛みだ。
あれほど手術で痛い思いをしてきた私だけれど、私の痛みは「切ったから痛いのは当たり前」な痛み。確かに失神するほどの強い痛みではあったけれど、どれほど地獄の四苦八苦であったとしても、切った傷は必ず時と共に必ず癒える。そう、だから私は耐えられたと言ってもいい。

でも。
彼女は、わかっていたはずだ。
その痛みが、どんな強い鎮痛剤も効かないということを。
私だったら。私なら。置き換えて考えても詮無いことだけれど、そう考えずにいられない。
心底震える。気が狂いそうになる。あの瀕死な病状で、彼女はほんの薄紙一枚の儚さで、あんなに笑っていたんだ。

10分ほど待つと、ご家族がICUから出てきた。みんな泣き顔だ。
「意識は戻っています。幸い、痛みはもうないようです。三島さんのメモを見せたら、笑顔で頷いてましたよ」
「あの、喋れるんでしょうか」
不躾だとは思ったが訊かずにいられない。
「声は、あまり出ません。でも唇は動きます。まばたきもできます」
意思疎通は出来るのか。だったら、私も話したい。
「あの私、明後日退院するんです。退院後はお目にかかれるでしょうか」

お父様が私のほうを向いて言う。
「三島さん、どうか、元気な祐子の姿だけを記憶しておいてくださいませんか。かなり顔がむくんでいて、もう以前の面影はあまりありません。きっと祐子も、あんな顔は誰にも見られたくないと思います」
え、そんな。むくんでたってなんだって私はいい、と言いかけて、ふと梶並先生が来た時にいそいそとお化粧し、紅潮した頬で照れながら微笑んでいる彼女を思い起こす。
そうだよなあ、あれだけ可愛くいたいと思っていた子が、そんな顔、誰にも見られたくないだろうなあ。

でも。それでも。

もう、このまま私は芳河さんに会えなくなるのか。
いや、そんな筈はない。
またきっと良くなって、一緒にいろんなことを話せる。
それにほら、チーズケーキ。
チーズケーキ、食べに行くって約束した。
行こうねって言った。ちゃんと言った。だから。
きっと、きっと約束を守ってくれるはず。
このまま会えなくなるなんて、そんなことあってたまるものか。

私は自分で自分を宥めるために、彼女の落とした言の葉を思い起こし、心の中に堆積させる。そんなはずはない。そんなはずはない。そんなはずはない。そんなはずはない。

2日後、私は元気になって退院した。
でも、家から病院が近かったこともあり、私は毎日病院に通って先生やご家族の話を聞いた。手紙も渡してもらった。
そんなことを5日も繰り返した頃、私は不意に梶並先生に呼び止められた。

「三島さん」
「あ、先生。あの、芳河さんは」
「まだ意識がある。話すなら今のうちだと思う。ご家族が拒否しているなら無理だけど、会いたいよね?」
「はい、会いたいです」

梶並先生がご家族のもとに行く。ずいぶん戻ってこない。
私はご家族に入室を許された。梶並先生の計らいもあるだろうが、どうやら、彼女のほうが私に会いたいとずっと言ってくれていたらしかった。
ICUに入るための防護服を身に着けて私は芳河さんのところに行く。
私は深呼吸する。落ち着け。落ち着け。
そしてめいっぱい笑顔を作る。

「やあ。久しぶり!」私の声は不自然にでかくなる。
芳河さんが私を見る。目を細めるのがわかる。
彼女の顔は、私が想像していた以上にむくんでいた。
というより、腫れていた。もう彼女は以前の面影を殆ど留めていない。
「や あ。 ひ さ し ぶ り」
芳河さんは私の真似をしてゆっくりと口を開ける。
「退院したよ。先に。だから早く退院してよ。いつまで待たせるの」
ああ、これと同じようなセリフを私は芳河さんに手紙で書いてもらったなと思い出し、涙が出そうになる。
芳河さんがまばたきを2回。これはYESの意味だと弟さんに聞いている。
「私、読唇術勉強してきた。だから、だいたいのことわかるから話して」
嘘だった。でも、そういえば何か話してくれると思った。

彼女の唇が動く。
「い ん い て」
うーん、わからんな。もう一回頼む。私は手を合わせる。
「し ん じ て」
お、わかった。信じて、だな。

「うん、わかった。信じる。私は芳河さんのこと信じるよ!」
「ち が う」軽く首が横に振れる。
「え、違うの?」
「み し ま さ ん は み し ま さ ん を し ん じ て」
私は死ぬ思いで読み取る。こんなに集中したことはないほどに。
「三島さんは三島さんを信じてって言ってる?」
彼女の瞼が2回、バチ、バチ、と動く。

私はいよいよ泣きそうになり、ぐっとこらえる。
なんてことだ。こんな時に、こんな状態で、あなたは私を勇気づけてるの?

その後、私は彼女を笑わせようと梶並先生の話や自分の失敗話をした気がするが、何を話したのかが全く思い出せない。
私はその時、泣かずにいることだけで必死だった。

不意に彼女が目を閉じて唇だけ動かす。
「あ り が と」
やめて、今生の別れのようなことを言うのはやめて。
私は振り切るように「また来るから」と言って手を握る。
怖かった。このまま会えなくなるという現実を、私は受け止めたくなかった。
「今度来るときは、五十音表持ってくる。また来るから、だから」
生きていてね、とは言えなかった。
私は手を振ってまた来るからを繰り返す。
彼女はまばたき繰り返し、うん、うん、と私に応える。
この時、本当は言いたかった。
「もう少し生きていて」
でも、言えなかった。
あまりにも痛々しくて、そんなことを軽々しく言うには、あまりに残酷だと思った。

ICUを出て、芳河さんのご家族に合わせてくださった御礼を言う。
「喜んでいると思います、ありがとうございます」
頭を下げるご家族に私は何も言えない。
私はこうしてまた元気になって退院した。そのことが、なんだか申し訳ないような心持ちになる。

私は彼女と行くはずだったカフェに立ち寄ろうと車を出す。が、すぐに引き返す。違う。違う。私ひとりで行くんじゃない。いつかきっと、芳河さんと絶対一緒に行くんだ。

それは、祈りだった。

彼女が、車椅子を降りて、スタスタと私の前を歩く。
レースのブラウスとピンクのギャザースカートが揺れる。
「三島さん、何モタモタしてんのよ」
「待ってよ、せっかちねぇ。チーズケーキは逃げないわよ」
「わー、めっちゃ素敵なお店。こんなお店、入ってみたかったんだぁ」
彼女が笑う。向日葵のようにきらきらと笑う。
「美味しいねぇ。病気になってもこんな美味しいもの食べられるなんて私たち、本当に幸せよね♪」
私たちふたりは、向かい合い笑いあって食べる。
美味しいね、美味しいね、と何度も何度も言いながら、私たちはずっと笑顔だ。そうだね、ミートソースも頼んじゃおうか、そうだね、頼もう。私はドリアにするからシェアしない? うん、そうしよう。
芳河さんは梶並先生のことを話して頬を染める。
私はそれを見て彼女をからかう。
カフェの窓辺から、夏の光が燦々と注ぐ。
向日葵は笑う。本当に美しく、光を纏いながら、楽しそうに笑う。
彼女が微笑んで、もう一度言う。
「美味しいね、幸せだよね」

……彼女はもう、闘い抜いたんだ。

これ以上、闘えないほどに、闘ったんだ。
これ以上闘えというのは何人(なんぴと)も許されないであろうことを、私は知った。

その日の明け方、電話が鳴った。

芳河祐子さんは8月20日午前4時45分、この世を去った。


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