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褐色細胞腫闘病記 第30回「拍手の花束を」

芳河さんの葬儀は自宅葬だった。

「大学病院の霊安室のエレベーターには絶対に乗りたくないと生前言っていました」
私はまず、このことを彼女の遺言としてご家族に伝えなくてはと必死だった。
その甲斐あって、彼女はあの暗いエレベーターには乗ることなく、病室から直接ご自宅に帰ったと聞いて心から安堵した。

彼女のご自宅は県北の小さな町だ。
入院したばかりの頃に同じ病室にいた根田はるかさんと連絡を取り、片道2時間ほどかけて私は車を飛ばした。
「まさかこんなに急に亡くなるなんて」
根田さんはまだ信じられないという面持ちで助手席で俯いたままだ。

彼女の家は木造の二階建ての、瀟洒なつくりの家だった。
お母様が出迎える。こんな時でもお母様のマスカラの色は青だ。オレンジ色のチークが目立つ。口紅も紅い。なぜか化粧がいつにも増して濃い。
違和感を感じながら、私は深々と頭を下げる。

「この度はご愁傷さまでございます」
「遠いところからありがとうございます」

お母様は次々にやってくる弔問客に深々と頭を下げている。
そうか、こうしてきちんと弔問の方々をお迎えするための敢えてのこの化粧か。我が子に先立たれるという親の痛みを想い、私は息が出来なくなる感覚に陥る。
続けて弟さんが迎えてくれる。私は根田さんを紹介する。

葬儀には芳河さんを慕う人たちがたくさんたくさん集まっていた。
これほどまでに人脈があった人なのかと私は驚く。
彼女のもとに来る病室への見舞客は、ご家族以外誰一人としていなかったというのに。
「姉は、苦しんでいる姿は見せたくないと言って、お見舞いを一切お断りしていたんです。だから突然逝ったことを受け入れられない方も多くて」
弟さんが私の気持ちを見越したように話す。
そうか、それなら私が病気だからこそ会えた縁なんだと、改めてこの出会いに奇跡を想う。

祭壇を見ると、芳河さんの棺の傍らに白い犬が横たわっている。
そういえば、彼女には愛犬がいると聞いたことがある。確か、名前はミノと言ったはず。祭壇に飾られた遺影も、ミノと一緒に笑っている写真だ。
遺影の中の彼女は、まだふっくらとしていた頃のものだ。
ノースリーブのドレスに水玉のリボンのヘアアクセサリー。とてもきらきらした笑い顔。
私のよく知っている、向日葵のような可愛い笑顔の遺影だけれど、なんだかひどく遠く感じる。
あれは、あれは本当に芳河さんなんだろうか。

葬儀は粛々と営まれる。
芳河さんが描く同人誌の仲間だろうか、芳河さんと同世代くらいの男性が弔辞を読む。もっさりとした髪型。少し太っていて、喪服に皺が目立つ。
しかし彼はまっすぐに背筋を伸ばし、棺の前に堂々と立ち、語りかける。

「おい、芳河、なんなんだお前は。俺たちに黙ってそんなに急に勝手に逝くなんて聞いてないぞっ!」
大きな、張りのある声だ。
「それになんだ、お前は大馬鹿だ。親より先に死ぬのか?」
ぎょっとする。弔辞にしてはいささか乱暴がすぎるのではないか。
でも、ご家族はしんみりと涙を浮かべて耳を傾けている。
どうやら長い付き合いの、とても懇意にしている方らしいと察する。

「芳河、でもな、俺ら、お前がいたから頑張ってこられたんだ。ほら、見てみろよ、ここにいる連中はみんな絵を描くことくらいしか能がないヤツらばかりだ。 社会の落ちこぼればかり。俺も含めてな」

彼の叫びは、劇団員のセリフのように少し大仰だ。葬儀の場には相応しくないようにも感じる。でも彼の顔は真剣そのものだ。その瞳にはいっぱい涙を湛え、ぶるぶると拳を震わせている。きっと彼なりに必死に朋友に語りかけているんだろう。私は居住まいを正してじっと耳を傾ける。

「お前は本当に親不孝だ。でもな、俺らはみんなお前がどれだけ踏ん張って生きてきたかはじゅうぶんに知ってる」
彼は声を詰まらせる。頑張れ、と私は思わず心で放つ。

「ここにいるみんなはなぁ、どんなにキツいことがあっても、 死にたくなるようなことがあっても、お前の痛みよりはずっとマシだって思って立ち直って来られたんだ。本当にどんだけ頑張るんだよお前は。痛いときは痛いってちゃんと言えよ」
彼は、もう一度、大きく深呼吸をする。

「芳河、お前、いつもそんな体で人のことばかり気にして励ましてきただろう。だけどなあ、俺らもそんなお前を頼ってばかりで…なんにも…」
再び声を詰まらせる彼。頑張れ。私は一生懸命エールを送る。

「でも今はすべての痛みから解放されたんだよな。痛みがないって状態は何年ぶりだい? 痛みがなくなったからと言って、天国でベラベラ喋りまくって迷惑かけるなよ、芳河」
泣き笑いの彼。参列者もみんな泣き笑いだ。

「芳河、よく頑張ったな。よく生きたな。俺はお前を尊敬するよ。まあ、今はゆっくり休め。俺らもなんとか落ちこぼれなりに生きてくわ。これからも芳河だったらこういう時どうするか、どう言うかって考えるだろうけど、それは勘弁してな」
彼は、ここで再び姿勢を正す。

「芳河、ありがとう! 長い闘病生活、本当にお疲れ!」

それは、とても素敵な弔辞だった。
書いてきた原稿を読むだけの言葉ではない、心からの言葉だった。

私は彼女の棺に近づき、焼香する。
彼女の顔は痛みから解放され、本当に柔らかだ。でも、当然だが笑ってはいない。私はなんの言葉も出てこない。なぜだろう。
ここに横たわっているのがあの芳河さんだということを、私はまだ認めたくないのかもしれない。ひどく現実感がない。解離に近いこの落ち着かない浮遊感。私は無心で手を合わせる。

ね。
なんで私が生き残り、芳河さんに線香なんてあげてんの?
これは、本当に現実なの?

その後、お父様に呼び止められる。
「三島さん、祐子が創ったものです。見てやってください」
そう案内されて入ったのは、彼女の部屋だった。
可愛らしいラッコの壁紙の部屋の中には、彼女の創ったアクセサリーやぬいぐるみ、そしてたくさんの同人誌が整理整頓されて並んでいる。

「これを、三島さんにと」
何種類かの同人誌。そうだ、一緒に行くはずだったカフェに置くよって言ったんだっけな。
不意に涙が出そうになり、私はぐっと堪える。

「ご存じかもしれませんが、祐子の実の父親は祐子が幼い頃に同じSLEで亡くなっています。思春期の頃は私ともあまりうまくいきませんでしたが、でも、本当にいい娘でした」
そうですか、と応えるのもどうかと思い、私は黙ってうなずく。
「三島さん、どうか、どうか、祐子の分まで生きてください」

祐子の分まで? それは違うよ、お父さん。
私なんかが〈芳河さんの生きられるはずだった人生〉を担えるわけがない。
彼女は、とことん生き抜いたんだ。
〈生きられるはずだった人生〉などもう、一秒も一瞬も ないほどに、彼女は自分の人生を、自分の尊い命をしっかりと閉じたんだ。
私はお父様に深く深く頭を垂れ、その場を辞する。

帰り際、芳河さんの棺を見ると、愛犬のミノがこちらを見る。
「こまったよ、ごしゅじんさま、ねたままおきないんだよ。どうしたらいいのかなあ、これから、ぼくは」
そんな声が聞こえた気がして、私は答える。
「どうしたらいいんだろうね、でも、キミはいきるんだよ。わたしもいきるから」

煙になった彼女を見上げる。空に消えるそれは、もう遥か彼方、私の目には見えない。そうだね、もうあの壮絶な痛みに耐えることはなくなったんだよね。
「よかったね」という言葉が出そうになる自分を心の中で制するけれど、でも、それはきっと、ここに参列している芳河さんを想う人たちすべてに共通している感情だろう。

芳河さん、私はね、もう少しだけ頑張ってみるよ。
この先また再発するかもしれない。
私はあなたの分を生きることはできない。でも、私は自分のために、もうすこし頑張ってみるよ。
もし私が弱気になったら、天国から喝を入れて。
「なに弱気になってんの? あなたはまだ手術できる、それってすごいラッキーなんだよ」って、あの時みたいに、言ってね。

「三島さんは三島さんを信じて」
最後に命懸けで言ってくれたあなたの言葉を、私は一生忘れないから。

芳河さん、あなたの尊い人生に心からの拍手を。

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