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褐色細胞腫闘病記 第24回「青空の深閑」

早い朝。私は、がらんどうの宇埜さんのベッドを見つめる。

涙が止まらない。こんな悲しいことがあるだろうか。
ついこの間まで一緒にいたのに。一緒にここにいてくれたのに。

「三島さん、同室の人が亡くなるのは初めてなのね」
「うん、初めてよ」涙を拭きながら答える。
「私はね、もうずーっと入退院繰り返してるから、何度もあるんだ。膠原病って病気は症状はピンキリなんだけど、大学病院のアレ膠科にずっと入院している人って、なかなか大変なんだ」
そうなのか。免疫疾患だということくらいしか知識のない私は、ただ黙って話を聞く。
「充希ちゃんはね、小さい頃からずっと一緒に闘ってきた子なの。ほんとうに長い間、苦しい中でめいっぱい頑張ってきた子なんだよ」

そして彼女は独り言を言うように呟く。
「私、約束したんだ」
「え、何を?」
私は彼女のほうに身体ごと向く。

「どちらかが先に死んでも、絶対に泣かないでいようって。これ、充希ちゃんがステロイドパルスやる前に書いてくれた手紙よ」
私は絶句する。どんな想いで今、彼女は涙をこらえているのだろう。

芳河さんが宇埜さんがいないベッドを見つめながら言う。
「死んだ方がましだって思うほど痛くてつらいことがたくさんあるからね、この病気は。だからね、それでも自殺しないで闘ってこられたってことを褒め合おうねって、約束したの」

死にたいと思うほど痛いのか。それはそうだろうな、骨や臓器が傷んでいく痛みって想像できないよな、と私は身のすくむ想いで彼女の声を聞く。
私は渡された宇埜さんの手紙をそっと開ける。
可愛らしい文字で書かれた彼女の声がそこにはある。
ああ、ダメだ。まだ私はこれを読むことが出来ない。すぐに閉じて芳河さんに返す。


採血の時間だ。
病院の、いつもの日常が始まる。
ブラインドが看護師の手で開けられる。零れた光の欠片が部屋一面に降り注ぐ。廊下から聞こえる看護師の声、薬剤を運ぶカートの音。ストレッチャーを片付ける音。隣の病室からは採血を嫌がる声。それを宥める看護師の声。

いろんな音が、いつもと同じだ。

こんなに何も変わらない朝に、なぜ宇埜さんだけがいないんだ。

そうか、病院で人が死ぬってこういうことなんだ。
日常の中の、ほんのひとこまに過ぎないんだ。
いや、厳密に言うなら、それは病院に限らないだろう。
人ひとり死んだところで、時間は、世界は、冷酷なまでに容赦なく普通に流れる。吐き気がするほどの当たり前の、いつもとまったく変わらない世界のひとこまがゆっくりと流れる、ただそれだけに過ぎないことが、その残酷さが、私に突きつけられる。
この容赦ない現実に、私は大きく大きく身震いをする。

「こんなものよ。人がひとり死んだとしても、なーんにも変わらないの。びっくりするくらい変わらないのよ」
芳河さんがまた私の心を読んだように呟く。

思えば、宇埜さんは満身創痍だった。それは誰の目にも明らかだったじゃないか。それでも、心の準備は何もできていなかった。いきなりの〈同室患者の死〉という現実をどうしても受け止めることができず、私は心の置き場所にうじうじと悩んだ。
彼女の精一杯の笑顔と身振り手振りを思い出すと、止めようとしても涙が出て止まらない。

根田さんのオペは順調に運び、ICUには行かずにリカバリ室にいると聞いた。その後はここへは戻らず、消化器外科の病棟に移るという。根田さんの耳に宇埜さんの訃報が入るのは何日後になるのだろう。
一気に4人部屋が2人部屋になってしまった。

芳河さんは黙々と何かを描く。
「ね、何をそんなに一生懸命に描いてるの」
私が覗き込むと「ダメだよー、恥ずかしいから見ないでよー」と言って隠す。どうやら彼女が描いているのは少女漫画のようだった。

「私ね、同人誌を作ってて。これね、友達が買ってくれるの」
「え、私にも売ってくれる?」私がつい反応する。
「私の描いた物なんて興味湧かないよきっと。見てもいないのに買うとか後悔するよ?」
「じゃ、ちょっと見せてよ」
「やだ、恥ずかしいよ」
本当は見てほしいんだろうなと思うけれど、なんだか少し面倒になって私は黙る。
「今、私のことめんどくさいって思ったでしょ」
また図星だ。この子はもしかして心が読めるのか?

「私ね、今まで一度も働いたことないんだ」
彼女がこちらを見ずに言う。
「そ、そうなんだ」
私はただ相槌を打つだけだ。
「うん、でもさ、手先だけは病気の影響それほど受けてないから、彫金してアクセサリー作ったり、こうして漫画とか描いてお小遣い稼ぎしてるんだ」

え、病気の影響受けてるようにしか見えない指のむくみと赤みだけど…と、私は少しだけ狼狽する。
「あ、指はこんなんでも動くんだよ、案外ね」
また心を読まれる。

ふと、ふたりきりの病室に沈黙が流れる。
そうだな、彼女のために今日はもう余計なことは言わず黙っていよう。
芳河さんは彼女なりに精一杯悼んでいるに違いないのだから。


私の担当医の一人、鈴木医師がやってくる。
「三島さん、今日からオペまでずーっと毎日蓄尿してもらいますね」
「え、もう何度も外来でデータ出してますよね。病院にいて安静にしていたらそれほどカテコラミンは乱高下しないと思いますけれど」
「あー、それと、今日はちょっと特別な検査をします」
おいおい、私の前の質問に答えてくれよ。
「なんですかそのスペシャルな検査というのは」
「午後、ご案内します」
もったいつけないで教えてくれよ、と私は少しムっとする。

芳河さんが言う。
「たまにいるんだよねぇ、必要のない検査をしたがる医者って。私もそういうことよくあったよ。ここは大学で、教育機関でもあるからね」
「うん、でもさ、何の検査されるかわからないままっていうのは納得いかなくない?」
「三島さんの病気って本当に珍しいんでしょ。もしかして三島さんのデータが原因を究明するきっかけのひとつになるかもしれないよ」
そうか、そう考えればいいのか。私はちょっと明るい気持ちになる。

「ね、オペまでにいいところに連れて行ってあげる。午後の検温が終わって人の目が手薄になる時間があるの。その時間がチャンスよ」
「え~? そんなことして大丈夫?」
「だいじょぶ、だいじょぶ、私、ここのヌシだから」
そう言って芳河さんはあはは、と、ひどく覇気のない声で笑う。

そういえば一度外来で会ったきり、一度も北野先生に会っていないな、と私は何を見ているかわからないような瞳の医師の顔を思い出す。あれ、うまく思い出せないや。それほど会ってないってことだよな。

ああ、もうすぐオペが待っているんだな。
またあの痛みを耐えるのか。ひどくゲンナリする。
私は宇埜さんのいないベッドを見つめる。
彼女のようにちゃんと闘えるのだろうか。
発病してからずっと前向きで来た私だけれど、ここに来て停滞している自分を感じる。いけない、いけない。こんなことではいけない。
無理矢理笑顔を作る。
笑っていればなんとかなる。作り笑顔でも何でも、笑えばなんとかなる。
私は一生懸命口角を上げる。
でも、何度も何度も、何度やっても、今日はどうしても顔がゆがむ。
どうしても上手くいかない。

病室の窓の向こうには、青くて遠い空がいる。私は想いを飛ばす。
いや、彼女はまだあんな遠い場所にはいない。きっとここにいて、見ていてくれるはずだ。

宇埜さん。

ありがとう。私も頑張るからね、と心で呟く。
そして私はそっと目を閉じ、彼女のために何かに祈った。

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