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褐色細胞腫闘病記 第23回「病床の頬紅」

夜7時になると担当グループの医師が一斉に回診に来る。

消化器外科の病棟とアレルギー膠原病科の病棟は別棟だ。
おそらく私の担当医師がここに来るのはかなり遅くなるだろう。

なぜか芳河さんが妙にそわそわしている。
カーテンを閉めてなにやらもぞもぞやっている。
いったい何してるんだろう。
宇埜さんが私に目で「ほらほら始まりましたよ」と笑っている。

「ジャジャーン♪」
彼女がサッとカーテンを開ける。満面の笑みだ。
ニット帽をかぶっていた彼女が可愛らしいショートウィッグを着けている。
「えへへへ。今日は、あやや風ねっ♪」
嬉しそうに髪が揺れる。
あれ、うっすらと頬紅にカラーリップまで。
「どうしたの、なんだか急に可愛く変身したね」
私が目を瞠ると芳河さんはえへへと照れる。

そこに、彼女の担当医師グループがやってくる。
おっ。梶並教授がいるやん。なんで??
「はいはい、こんばんは~♪ 芳河さん調子どう?」
相変わらず闊達な声だ。
芳河さんが途端に少女の貌を見せる。
「はい、とくに変わりありません…」
えっ何その猫の鳴くような愛らしい声は。

「痛みはどう? 何か困っていることはないかな?」
「ハイ…だいじょうぶです…なにもないです…」
おいおい、別人かよ。

梶並教授は引き連れてきた若い医師に何やら教えている。
若い医師はメモを取る。どうやら学生か、研修医さんか。
芳河さんはずっと下を向いてもじもじしている。

ふと、梶並教授が横のベッドいる私に気づく。
「あれぇ? 三島さんだ。こっちに回されちゃったんだぁ。手術いつ?」
「えっと、5日間検査してその後です」
「え、5日もなんの検査するん? 外来であらかた終わってるよね」
「まだよくわかりません。あ、先生はどうして今回は私のオペに入ってくださらないんですか?」
不躾を承知でストレートに訊いてみる。
梶並教授は少し間を置いて言う。
「ああ、うん、グループが全く別になっちゃったからねぇ」
「北野先生が執刀医なんです。あの先生は私の…」
「あっ、彼は腕は確かだよ」
だからそんなこと聞いてないがな。なんでみどり先生と同じ反応なんだよ。

それから1時間ほど遅れて私の担当医たちがやって来た。
見たことのない若い医師2人と藍野みどり先生だ。
「三島さんこんばんは~ 明日からたくさん検査していただきますね~」「今日のご体調はいかがですか?」
ニキビいっぱいの若い医師とやたら声の低い童顔の医師は、ネームプレートを見せながら軽く苗字だけ自己紹介をする。
鈴木先生と佐藤先生か。こりゃぁ忘れたくても忘れられない苗字だな。

続けてみどり先生がニコニコしながら言う。
「こちらの病室、お若い方ばかりですからお話も合いますよね」
「はい、ここ、明るい感じのお部屋で嬉しいです」
「それは良かったです。お変わりございませんか?」
「はい、特に変わりはありません。ところでみどり先生、今回は検査の数が多いですね」
私がみどり先生の顔をじっと見ながら言うと、彼女は目をそらして答える。
「そうですね、いろんなデータを取りたいって北野先生がおっしゃるものですから」
あ、そういえば、なんで肝心のメインドクターが回診に来ないの? 
怪訝に思って尋ねる。
「あのぅ、北野先生は回診にいらっしゃらないのですか?」
みどり先生がひとつ、咳払いをする。
「先生は、回診は、なさいません」
は? なんでだ?
大教授クラスの棚沢教授でさえ毎日顔を見せてくれていたし、さっき梶並先生だって来てくれてたのに。

回診がひととおり終わり、私は芳河さんに小さな声で問う。
「ねぇ、もしかして芳河さんって梶並先生のこと好きでしょ」
「アハハ、バレた?」
「当たり前やん。バレバレやん。なんなのあの少女漫画みたいな照れようは」
私が笑いながら言うと、それを受けて根田さんが笑う。
「やっぱ女の子なのねぇ。恋するっていいわぁ。私もトキメキたいなあ」
「えへへへ。ね、梶並先生、カッコいいと思わない?」
はああぁぁ? カッコいいぃ~?
ナンパを生き甲斐にしてピザばっかり食ってるイタリア人みたいな顔してるやんけ、という言葉はグッと呑み込んで「うんイケメンよね」と応える。
「先生はずーっと三島さんの担当だったの? いいなー♥」
「あ、そういえば、どうして消化器外科の梶並先生がここに来てるの?」
「私、先月、十二指腸摘出したの。そのときの執刀医が梶並先生ね。内臓が腐っちゃって」

…ないぞうが、くさっちゃって…? 
一瞬、漢字変換が脳内で追いつかず、私はポカン、とする。
え、内臓が腐るって言いましたか今。

根田さんが私の驚きを受けたように言う。
「なんでそんなに元気でいられるの? 鎖骨も内臓も傷んでいるのに」
「モルヒネという神が私にはついているからねー♪ 24時間流しっぱなしだからね♪」
私と根田さんは声を失う。なんと返したら良いのかわからない。

宇埜さんは声は出せないけれど、一生懸命に私たちの会話に反応を送ってくれている。
私は意識的に宇埜さんの方を見て話すようにする。
宇埜さんは身振り手振りも添えながら、私たちに応えている。
両腕の爛れが痛々しいけれど、彼女はいつも柔らかい雰囲気をこちらに伝え続けてくれている。
なんとなく、そこにいてくれるだけでホっとする雰囲気を湛えている人だと思う。

「宇埜さん、何かしてほしいことない?」
根田さんが話しかける。
彼女は声を出さずに口だけ開けて話す。
「あ・し・た・オ・ぺ・が・ん・ば・っ・て・」
芳河さんが同時通訳する。
根田さんはガッツポーズ。もうすっかり落ち着いたようだ。


だがその夜、宇埜さんが急変した。
「充希ちゃん! しっかりして!」
芳河さんが必死で声をかける。
バタバタと駆けつける看護師。
当直の若い医師の大きな声。
苦しそうに喘ぐ、宇埜さんの、声にならない声。
私はただ見守ることしか出来ない。為す術もない。

彼女はICUに運ばれた。
聞けば、彼女が希望しギリギリまでこの一般病棟にいたそうだ。

彼女が亡くなったことを知ったのは、根田さんがオペに行った後だった。


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