見出し画像

褐色細胞腫闘病記 第31回「沈む秋色」

風の色が静かさを帯びる。庭のドウダンツツジは紅く映え染まり、秋桜が柔らかく揺れている。自慢の皇帝ダリアはいつの間にかすくっと姿勢を正し、固い蕾を湛えている。

実家を出てこの家に住んでからもう何年になるだろうと心で数える。
「花を育てられる広い庭がある家がいい」
そう望んで移り住んだ二階建てのロフト付きのこの家は、夫が結婚前に見つけてきたものだ。

「おい、親父の部屋のカーペットを冬用に替えてやってくれ」
はいはい、本当にお父様のことだけにはよく気がつくんですね、と嫌味を言いそうになる自分を制しながら、私はわかったわ、とだけ返す。

相変わらず夫は私に隠しごとをしている。
いつ、どのタイミングで切り出すのがいちばん効果的か、私はもうずいぶんと考えている。妻に隠れて悪事を働いている夫を暴き叩いて溜飲を下げるだけなら、 もうとっくにやっている。でも、それだけじゃダメなんだ。

私は依存症について徹底的に勉強しようと決め、本を買い読み漁った。そして、 かつて通っていた信頼できる精神科の主治医に連絡を取り、アドバイスを求めた。
でも、具体的にどう動いたらいいのか、その時の私はまだ考えあぐねていた。

掃除をしながら、ふと洗面台の鏡の前に立ってみる。
ああ、また痩せたなあ、と、こけた頬を掌で包む。
手術をするたびごとに痩せて、それでも胃腸が丈夫な私はある程度は戻る。だが、また再発し痩せこける。その繰り返し。
でも、そんなことはもういい。私はこうして生きているのだから。

芳河さんが私にくれたバレッタ。外すとパチン、と乾いた音がする。
長い髪が、バサっと思いのほか大きな音を立てほどけ、私の肩をひろく包む。
私の髪の毛は太くて多い。そして遺伝的変異で白髪が一本もない。
ああ、そういえば美容院に久しく行っていないな。
よし、気分を変えてみようか。髪型でも変えようか。
どうせならこの際、美容院も思い切って知らないところにしてしまおう。

思い立った私は、今朝の新聞に入っていた美容院のチラシを取り出して広げる。 掲載されているお店の写真を見ると、木造の壁のちょっと懐かしい感じのする美容室だ。
私はおそるおそる予約の電話をしてみる。
「できれば女性の方でお願いしたいんですが」
「当店には男性美容師はおりません。今日これからなら空いています」
ああ、よかった。ホッと胸をなでおろす。私は昔から鏡越しに男性と会話するのがとても苦手で、男性美容師がいる美容院をずっと避けてきたのだ。
野乃子が学校から帰ってくる前に急いで行こう。

そこは、幸いにも家から車で10分程の近い距離にあった。
担当についてくれた女性は25、6歳か。遠慮がちに笑うその柔らかな表情は、とても好印象だ。だが、とても太っている。90キロくらいは優に超えているだろう。 美容師でここまで太っている人も珍しい。

「本日担当させていただく玉野と申します。よろしくお願いします」
感じのいい物腰の柔らかさと優しい声。
いい人で良かったなと思うけれど、私は初対面の人と話すことがとても苦手だ。希望のヘアデザインを説明しようとするのだが、呆れるほど上手く言葉が出てこない。
するとすかさず「お客様、せっかくの髪の豊かさですから、それを活かした感じでカットいたしましょうか」とデザインブックを持ってくる。

私の言葉の端っこを敏く捉えながら、どんなデザインが好みかを探る美容師。上手にイメージを伝えられない客の言葉を引き出すのも、美容師のテクニックの ひとつだろう。私に問いかける質問はいちいち的確だ。
「これは間違いなくデキる美容師だな」と確信する。

「あの…実は私、この髪の多さがコンプレックスで…できれば少なく見えるように、全体的にサラっとスキっとした感じにしてほしいんです。長さは短くし過ぎずに…」
ああ、なんでこんなに語彙が出てこないんだろう。情けない。
「カラーはどうしましょうか、ライトブラウンにオレンジ色をほんのり足すと映えると思いますよ」優しく応える彼女の声に励まされる。
「わかりました、明るい色で。カラーはお任せします」

美容室での世間話は私にとって拷問だ。
しかも鏡越し。どういう顔をしたら良いのかがわからない、この自意識過剰。玉野さんはそんな私の心を読んだかのように、雑誌を私の目の前にさりげなく積む。私はそれをすかさず手に取る。大して興味もない芸能人のゴシップだらけの週刊誌をペラペラと開く。

玉野さんの技術は確かなものだった。手早く、要領も良い。バサバサだった私の髪が一気に綺麗に整い、艶が戻った。毛先が軽いパーマで可愛く遊んでいる。
「傷みの少ないお薬を使っていますが、ご自宅でもお手入れして下いね」
自宅でのケアの仕方も丁寧に教えてくれる。

「お待たせしました」
合わせ鏡で後頭部を見せながら玉野さんが言う。
「三島様、とてもお似合いです」
目の前にいるのは、少し若返った私。
おお、素敵な髪の色。なんか別人みたい。
多すぎてどうにもならなかった私の髪が綺麗にすっきりとまとまり、自然な色艶で柔らかく光を弾いている。私は一気に心が華やぎ、とても嬉しくなる。
「もしよろしければ、メイクもいたしましょうか。初めていらしてくださった方への サービスです。もちろんお断りしても構いませんが」

玉野さんが笑顔でメイクアップ道具を並べる。
おお、美しい。 色、色、色。華やぎの色たちだ。
なんて綺麗な紅色だろう。
私は庭のドウダンツツジの美しさを思い出す。
私もあんなふうに華やかな雰囲気になれるのかしら。
マスカラの付け方、紅筆の使い方なども丁寧に教えてもらいながらメイクを施され、私は今まで見たことのないような自分の顔に出会う。

きっとこのサービスも顧客をつかむためのものだろう。
でも、この美容室に来る前と来た後でこんなに変われるなら、きっと客はまた来るはずだ。事実、私もこれ以来、ずっと玉野さん指名で通い続けることになる。

野乃子のはしゃぎっぷりは想像を超えていた。
「ママ、可愛い♪ くるくるってしてるね、髪の毛が。ほっぺも綺麗。お口も綺麗な色だね、ママ、とっても可愛くて綺麗!」
そうか、今まで化粧もろくにしていなかったなと反省する。
子供は自分の母親が身綺麗ににしていることはこんなに嬉しいんだな、と今までの自分を反省する。それと、身綺麗にすると、自分自身も心が元気になることを実感する。
なぜ私は今まで毎日すっぴんでいたんだろう。

帰宅した夫が、私を見る。
一瞬ハっとして、目を逸らす。
そう、こういう時、彼は意地でも私を褒めない。
褒めたら負け。女房が美容院に行ったことくらいでいちいち反応する男は、男の風上にも置けない、本気でそう思っている。だから、見ない。私を見ないんだ。

でももう、こんな反応は慣れた。
褒めてもらおうと思って待っていたわけでもないし、もともと、夫のために美容院に行ったわけではない。
でも、わかりきっていたとしても、この反応はやっぱり切ない。華やいだ気分は一気に半減する。

結婚前から病気を抱え、これほど入院、手術を繰り返している女房が今更化粧したとて、髪を整えたとて、なんになるんだとでも言いたげな夫の背中につい、私は投げそうになる。

「ね、あなた、私といて楽しい?」

いやいや、それを考えてはいけない。
それはだって、即、私の胸に響き返ってくるものだからだ。

でも、これを機会に口紅でも買ってこようかな。
髪の色に合わせた淡いオレンジ色がいいかな。
私は野乃子が学校から持ってきたプリントを読みながらぼーっと明日のことを考える。
ああ、仕事、したいなあ。
口紅ひとつ買うのにも、夫の顔色を見て買うのはもういやだなあ。
ピアノをもう一度教えたいなぁ。
私はどうしたら仕事に還れるかを一心に考え始める。

だが、次の日、私は猛烈な腹痛に襲われた。


よろしければ、サポートをお願いします。いただいたご芳志は、治療のために遣わせていただきます。