見出し画像

羽生結弦『GIFT』鑑賞記 ④丸ノ内線Conversation

  

さあ、夢の時間は終わった。
これからはるばる帰路につかなければならない。
東京ドームを出てから、私は後楽園駅に向かった。いや、正確に言えばひたすら白ボアブルゾンの道案内についていっただけだ。が、とりあえず着いた。
しかし、後楽園駅から先は自力でなんとかしないといけない。まず東京まで出よう。丸の内線か。それにしても混んでいる。駅にいるのはほぼ羽生結弦の余韻に浸っている人ばかりのように見える。

行き先を間違えないよう何度も確認して電車に乗る。車内も混んでいる。東京まで約10分。座れなくてもなんとかなる時間だ。でも、ヘルプマークを見たのか、目の前に座っていた女の子が「どうぞ」と目で話しかける。三つ編みをした10代くらいの女の子だ。色が白い。睫毛にチャームが光る。細くて小さい女の子。なんとなくタレントの千秋に似ている。

「あ、東京で降りますから大丈夫です。ありがとうございます」
と笑顔で返すと「§¨<>#”Δ♭」と何やらわからない言語が返ってくる。イントネーションから推察するに、これは中国語だ。
お茶の水駅で千秋ちゃんの隣が空く。彼女はバッグを席に置いて、私に座るように促す。
彼女の左隣に座ると、私のボアブルゾンを指さして「YUZURU’s fan?」と英語で聞いてきた。おお、彼女はブルゾンこそ着用していないがまさにドーム帰りに違いない。
それにそうだよな、この手があったやん。英語は全世界の共通語。最初から英語で話せばよかったんだ。

私は中学生に英語を教えているので、中学英語の文法は頭に入っているし、中学英語レベルの英単語はほぼわかる。
ただ、自慢じゃないが英会話のレベルはかなり低い。受験英語しか教えていない私、会話の経験もほぼない。でも、まったくわからない中国語よりはコミュニケーションは取れるだろう。

「Yes! You too?」「Sure!」おお、会話が成り立ちそう。これはイケる。
わくわくして話し始めると、彼女は私に「Here you!!」と言って手作りの結弦グッズを渡してくれた。キティちゃんのマシュマロが、結弦君の写真と一緒に入って丁寧にラッピングされている。
そうだよな、これがファン同士の醍醐味なんだよな…なのに私、こんな交流ができると思ってなくて、何にも持ってない。

「ありがとう。こういうのすごく嬉しいです。でも今日は私は何も持ってきていないのです。本当にごめんなさい。東京ドームは初めてですか? 私は生の羽生くんを見るのが初めてで、今ちょっと夢の中にいるみたいなのです。本当に素敵だったわね。彼は本当にカッコいいですよね。間違っていたらすみません、あなたは中国の方ですね。私は日本の田舎から来たのよ。これから2時間近くかけて帰らなければならないのです」

なんだかAIが話す教科書の文みたいになってしまったが、これを全部脳内で英語で訳し、信じられないほど淀みなく話せた。これは嬉しかった。
通じないかもという危惧を持たずに話せたのは、相手が英語メインの国の方じゃないからだろう。
彼女は中国語と英語を混ぜて話すが、残念ながら英語の部分しか聞き取れない。
それでも親切で優しい千秋ちゃんの話す英語は聞き取りやすく、返しやすかった。彼女の羽生愛は慎ましくとても深いことがとてもよく伝わった。

東京までの10分間、優しいひと時をくれた千秋ちゃんに「またいつかどこかで会えるといいですね」と王道のお別れの挨拶を英語で伝え、手を振る。
降り際、ドアの近くに英字新聞を持った紳士がいたが、さぞ私の訛ったブロークン英語は面白かったに違いないと顔から火が出る。
まあでもいいや、これもいい思い出になるだろう。
思えば、東京ドームの右隣の席でひたすらヨガをやってた中国の女性にも英語で話しかければよかったんだと、今更ながら気づき、軽く舌打ちをする。

夜9時近い。
駅内の食事店は軒並み閉店の準備をしている。さすがにお腹が空いた。しょうがない、New Daysで何か買うか。今日日、売店をキオスクって言わないのなと思いながらチキンサンドと紅茶を買う。さて、ここから北に向かわなければ。もう面倒だから帰りも新幹線で帰ろう。
私はきょろきょろと新幹線乗り場を探した。

⑤(最終話)に続く

よろしければ、サポートをお願いします。いただいたご芳志は、治療のために遣わせていただきます。