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福音という幹

 新作の小説を書くのに、月のことをもっと知る必要が生じたため『図説 月の文化史 神話・伝説・イメージ(以下『月の文化史』)』と『月世界大全』の中古本を某オンラインショップで買い、土曜日に『月の文化史』の下巻と『月世界大全』が届きました。2冊とも、ぱらぱらとめくっていたところ『月の文化史』に、以前所有されていた方が挟んだと思しきしおりが挟んであるのを認めました。
 それで、先に『月世界大全』から読み始め、キリのいいところでしおりを挟もうと思ったので『月の文化史』に挟まれてあったしおりを手に取ると、それは桜の木にとまるうぐいすの描かれたしおりで、

 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

という、『マタイによる福音書』11章28節の聖句が添えられていました。

 この聖句から連想されるのは『ルカによる福音書』の10章38節~42節の箇所です。この箇所では、イエスを自宅に招いたマルタという女が登場します。彼女はイエスをもてなすために、あれやこれやとせわしなく立ち回っていますが、そのかたわらでマルタの姉妹であるマリアは、イエスの足元にすわって、ただただイエスのその話を聴いているだけです。
 
「まあ、なんてノンキなオンナなのかしら、私はこんなに働いてるというのに!」

 マルタはそのことをイエスへ訴えかけますが、イエスはマルタへこうおっしゃいます。

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」

聖書 聖書協会共同訳

 ここでいう「必要なこと」とは、言わずもがな神との、イエスとのコミュニケーションであり、その「みことば」を聴くことです。「思い煩う」といえば、『マタイによる福音書』の6章31節には、有名なこんな箇所があります。

 だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。

 私の場合、これらのありふれた思い煩いにくわえて「何を読もうか」、「何を聴こうか」、「何を観ようか」、「何を書こうか創ろうか」などといった思い煩いも加わるわけですが、続けてイエスはこうおっしゃいます。

それはみな異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。

聖書 聖書協会共同訳

 イエスは、仏教でいう「ボンノー」まみれの、少なくとも私のような「欲のカタマリ人間」が欲する「欲望」を頭ごなしに否定されるお方ではありません。むしろ「欲望まみれの民衆」の心を超然と理解された上で、

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる。

聖書 聖書協会共同訳

と、おおせられます。「神の国と神の義」を求めることが第一義で、その他一切のことは「添え物」であり、とある牧師は「人生における優先順位」として、

 一に神
 二に家族
 三にその他

を挙げていましたが、私の場合、やはり「その他」が第一に来ていることがほとんどです。

 しかし、その「その他」である私の文学活動の幹(みき)となっているのは、やはり「福音」です。私は人見知りで口下手なので、よほど気を許した相手でないと、対面で自己開示をすることはめったにありませんが、「福音」を幹として、その「福音」という幹に和泉真(小林和真)の「言(こと)の葉」をしげらせ、「福音」に生い茂った者としての自己開示、すなわち「あかし」を、私小説的であるかフィクショナルな小説であるかを問わず、「文学(文章)」という媒体を通し、これからも表明していこうと思います。

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