見出し画像

「時間と自由意志 〜自由は存在するか〜」(青山拓央著)を読んで。

  そもそもクリスチャンの私が本書を読むきっかけとなったのは、「神と自由意志」という文脈において疑問が生じた故でした。
 というのも、神様は聖書の中でアダムとエバの創造と堕落に始まり、ノアの方舟の時代にも人を創ったことを悔いたり、サウルを王に立てたことを悔いたりと、ことあるごとにその「選択」を悔やまれておられました。
 もちろんそれも「人間の罪性」を示すために書かれているのだと思いますし、神は「悪」をも用いられる方であるのは分かりますが、ここでひとつの疑問が生じます。

 「私たちには『自由意志』がある。『選択』ができる。しかし、その『選択』は果たしてどこまで『人間の自由意志』なのだろう?」

 そこで取ったのが本書です。本書では、そもそも私達を「自由」だと思わせているのは「二人称的自由」、つまり、他者の「行為」をして、その内面のうちにその「行為」の本当の要因が--実際にはないとしても--「ある」と信じることによって、他者を「自由な主体」と見なし、同時に自分自身も「他者にとっての他者」であることから、自分自身も「自由な主体」、「自由な存在」たらしめていると主張されています。
 そして「行為」を「選択」しているのは「脳」であり、「人間は不自由な存在である」という俗流の図式すら「脳」を擬人化した結果としての「自由意志という幻想」に囚われていると論じます。
 そして、あらゆる人間が真には「不自由」であるならば、脳もまた「させる」のでも「される」のでもないならば、操作の主体はもはや存在しないことになり、「不自由」から「無自由--自由でも、不自由でもない--」の時代が来るとも論じられています。
 そうなると、この世の実像を描いているのは「Aの道(選択)」、「Bの道(選択)」などという「選択肢」の存在する余地のない「単線的決定論」か、「偶然」のみであり、そこには冷酷な「リアリズム」的な世界観のみが残ります。
 それはニーチェの「永遠回帰」の文脈が引用されて論じられており、ただ意味も目的もない「現在」を肯定する「冷酷かつ徹底的なリアリスト・現実主義者」としての世界観です。しかし、そうなると「世界が存在すること」は恩寵でもなんでもなくなる、として、著者は妥協策として九鬼周造の以下の文を引用しています。

--「無をうちに蔵して滅亡の運命を有する偶然性に永遠の運命の意味を付与するには、未来によって瞬間を生かしむるよりほかはない。未来的なる可能性によって現在的なる偶然性の意味を奔騰させるよりほかはない。かの弥蘭の「何故」に対して、理論の圏内にあっては、偶然性は具体的存在の不可欠条件であると答えるまでであるが、実践の領域にあっては、「遇うて空しく過ぐる勿(なか)れ」という命令を自己に与えることによって理論の空隙(くうげき)を満たすことができるからであろう。」--
 
 著者はそのような九鬼が論じた「命令」は「自己」に与えることはできず、その「命令」には「実行者」がいないと論じます。それは「本書的な意味」においてであり、先も書いたように、人間の行いを決めているのは「脳」で、その擬人化を行わないならば、「脳」は「させる」のでもなく、「される」のでもない。著者は九鬼が、こんにちの我々が脳を擬人化するようには「絶対者(神)」を擬人化しなかったとして、九鬼が世の偶然的創造を論じるにあたって「神の存在」を出す際には、せいぜい「遊戯する神」と言い留めるにしたとしています。

 しかし、ひとりの哲学者として著者は「神」についての言及を極力控えていますが、同時に著者は以下のようにも論じています。

 「神学的な伝統に則り<第一原因>や<自己原因>を神の働きと同等視するなら--そして本当に無数の分岐があるなら--世界はその隅々まで神の働きに満たされていることになる。」

 「神の愚かさは人よりも賢い」という聖書のことばがありますし、この「世界」が、人間には計り知れない「神の叡智」、「神の働き」によって満たされて創られているとしたら、たかが二十七年生きた程度の世間知らずの私が「神と自由意志」などという命題を立てるのは僭越な気がしますが、それでも私は「自由」という文脈で考えるならば、ルターの「キリスト者の自由」における、以下のふたつの相反する命題を想起します。

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。
キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する。

 ルターが提示したこのふたつの命題は、「神」という、「絶対者」なる権威と力を持っていたイエスが、その権威と力、いわば「自由」を捨ててまで私たちのために奉仕されたように、私たちも「信仰」を通して神から与えられ給うたその「自由」を隣人のために用いる、いわばそれがルターが説いた「キリスト者の自由」であると私は解釈したのですが、九鬼周造の「遇うて空しく過ぐる勿(なか)れ」という言葉を借りるならば、この過ぎては去ってゆく「時」に、空しいものにはあらざる「意味」を付与するのは、最後にはやはり「隣人愛」であろうと思うわけです。
 もちろん、それが容易になし得ない「罪」がわが内にうごめくのを、毎秒毎秒感じるのですが、たとえ「単線的決定論」のもとに世界が定められており、「自由意志」なるものが幻想であったとしても、「私」の身に、「私」を包む「世界」に起こるそのひとつひとつを愛おしんで、一刹那ごとに変化する幸いをも災いをも神から与えられた「美しい瞬間」として享受して生きていくことの意味について、改めて想わされた一冊でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?