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【太宰治の謎】『人間失格』に隠された太宰治の優しさがすごい!


✅小説家、太宰治の究極の優しさ

私はこのブログをまだ『人間失格』を読んだことのない人のことを思いながら書いています。
今回は最後なので、少しネタバレです。

読むことさえ困難な『人間失格』を読みやすくするためには、事前の情報が必要です。
小説を読まない、読んでも途中で嫌になるのはこの情報不足が原因です。
ですから、興味を持ってもらうために書きます。


『人間失格』の構造は次のようになっています。

はしがき
第一の手記
第二の手記
第三の手記
あとがき

『人間失格』がこのような構造になっていることを知っていると、ずいぶん読みやすくなります。

今回は『人間失格』のマニアックな解説の最後として「あとがき」に何が書いてあるかを見てみましょう。

「あとがき」にはなぜこの小説に三枚の写真と三冊の手記のことを書いたのか、その理由が書いてあります。
スタンド・バアのマダムが「何か、小説の材料になるかも知れませんわ」と「私」に渡したのです。
これが『人間失格』の「はしがき」につながっていきます。


✅「あとがき」に出てくる唐突な文章

「あとがき」の最後の最後に突然次の文章が出てきます。
突然出てくるのです。
何の前触れもなく出てくるのです。
その文章はスタンド・バアのマダムが言う次のセリフです。

📌あのひとのお父さんが悪いのですよ

この文章は最後から二番目の文章なのです。

なぜ唐突に「お父さん」が出てくるのでしょう。

私は父親について考えてみました。
どのような父親が考えられるでしょう。


主人公・「自分」(大庭葉蔵)の父親
太宰治の父親
太宰治の子どもたちから見た父親(=太宰治)
読者の父親


✅主人公・「自分」(大庭葉蔵)の父親

この『人間失格』の中で「父」という言葉が出てくる場面を探してみました。

主人公・「自分」(大庭葉蔵)の父親

この小説に出てくる父親は主人公・「自分」(大庭葉蔵)の父親です。


何という失敗、自分は父を怒らせた、✔父の復讐は、きっと、おそるべきものに違いない、
自分は、その✔父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡まわりに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。
✔父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。
しかし、どうにも、✔父がけむったく、おそろしく、

主人公・「自分」(大庭葉蔵)は父親に対して次のような感情を持っています。


おそるべきもの
理解できない
難解な
けむったい


つまり、自分が人間嫌いなったのは「父親のせい」だと言いたいのです。

📌父親がもっと「人間味のある存在」だったら、自分はこんな奇怪な人間にはならなかった。

これが主人公・「自分」(大庭葉蔵)の言い分です。


✅太宰治の父親

太宰治の実際の父親はどうだったでしょう。

それは他の小説を読むとわかります。
太宰治には『思ひ出』という小説があります。
その中で太宰治の実際の父親はどのように描かれているでしょう。

私の父は✔非常に忙しい人で、✔うちにゐることがあまりなかつた。うちにゐても✔子供らと一緒には居らなかつた。私は此の✔父を恐れてゐた。父の万年筆をほしがつてゐながらそれを言ひ出せないで、ひとり色々と思ひ悩んだ末、或る晩に床の中で眼をつぶつたまま寝言のふりして、まんねんひつ、まんねんひつ、と隣部屋で客と対談中の父へ低く呼びかけた事があつたけれど、勿論それは父の耳にも心にもはひらなかつたらしい。

この文章だけで判断すると太宰治の父親は

忙しい
家にいることがない
子供たちと遊ばない
恐れていた

こう列記してみると『人間失格』の主人公・「自分」(大庭葉蔵)の父親と似ています。

異なる点は

理解できない
難解な

の部分です。

それは『人間失格』が「他人を理解できない」をテーマにしているためです。
小説家、太宰治は主人公・「自分」(大庭葉蔵)のことを

📌あくまでも他人を理解できない人間

として描かなければならなかったのです。
主人公が「理解のある、優しさも垣間見える人間」では小説の効果が激減するからです。


✅太宰治の子どもたちから見た父親(=太宰治)

他の人はあまり指摘していませんが、
私はこの「太宰治の子どもたちから見た父親」という視点は
とても大切だと思うのです。

それはこの小説の中でも感じます。

手記の主人公・「自分」(大庭葉蔵)が父親になるのです。
その場面を引用してみます。

そういう時の自分にとって、幽かな救いは、シゲ子でした。シゲ子は、その頃になって自分の事を、✔何もこだわらずに「お父ちゃん」と呼んでいました。
「お父ちゃん。お祈りをすると、神様が、何でも下さるって、ほんとう?」
「シゲ子はね、シゲ子の本当のお父ちゃんがほしいの」
 ぎょっとして、くらくら目まいしました。敵。自分がシゲ子の敵なのか、シゲ子が自分の敵なのか、とにかく、✔ここにも自分をおびやかすおそろしい大人がいたのだ、他人、不可解な他人、秘密だらけの他人、シゲ子の顔が、にわかにそのように見えて来ました。

ここでは

📌父親が子供を理解できない

ところまで、主人公・「自分」(大庭葉蔵)の「人間失格」が進んでいます。

さらに太宰治には『父』という短編があります。

父親が子供を殺す(その直前にやめる)ことがテーマです。

太宰治はこの小説で自分のことを

📌家族を顧みないダメな父親

だと言っています。

こう考えてみるとこの『人間失格』は小説家、太宰治の

📌自分の子供たちへの懺悔の小説


と言えるのかもしれません。


✅ 読者の父親

この『人間失格』を読む読者は、

「この主人公って、なんと人間らしくない男」なんだ。

と強く思うことでしょう。

そのことによって、あるいは読者の一人くらいは

📌「うちの父親もダメだけど、これほどではないな」

と思うかもしれません。

📌それが、小説家、太宰治の「優しさ」なのです。




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写真は以下よりお借りしました。


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