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石川悌二著『近代作家の基礎的研究』(1)―森鷗外と谷崎

『幼少時代』との答え合わせができる本

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』は、著者が東京公文書館に勤務しながら、膨大な資料の中から近代作家の足跡をたどり、資料と共に発表したものです。ここに取り上げられる近代作家(森鷗外夏目漱石尾崎紅葉泉鏡花樋口一葉谷崎潤一郎)には大きな共通点があり、私などはそこに何らかの意図を想像したりしてしまうのですが、この本を読むにあたっては、谷崎についての『幼少時代』の記述との違いのチェックから始めました。

『幼少時代』についてはかねてから随筆ではなく小説と思っており、その思いがここに掲載される他の作家の分も併せて読むことでさらに強くなりました。『幼少時代』との答え合わせについては、「谷崎潤一郎研究のつぶやきWeb」にも書いておりますので、こちらも併せてお読みいただけると嬉しいです。

noteでは、この本に掲載された作家について、掲載順に谷崎の親戚や作品との接点等を見つけていきたいと思います。谷崎はこの本の最後に登場しますが、それは谷崎の存命中に発表することを著者がためらったことが理由のようですが、それだけに、なぜここに谷崎が登場するのかという点も非常に興味深いものがあります。調査は谷崎の恩師にも及びますが、それがまた谷崎周辺の年上の人たちやこの本に登場する作家と繋がってきたりするのが非常に興味深いところです。谷崎作品の協力者たちは谷崎より年齢が上の人が多いです。その中には友人の父や恋人の父もいます。この父たちはそれによって自分の息子や娘がつらい立場になることも厭わなかったように思われるのですが、そのあたりのことも考えながら、始めてみましょう。

森鷗外

鷗外については、『春琴抄』や『夢の浮橋』等との関連をこれまでつぶやいてきており、それから谷崎の創作ノートで、『お艶殺し』との関連が窺われます

中でも森 於菟著『父親としての森鷗外』で暴露される「鷗外の隠し女」こと、児玉せきさんと『春琴抄』の関連がこの本で確認できます。
少し引用してみましょう。

児玉一家は明治十六年四月に、木内栄助を婿養子に直した。せきが妊娠していたためだろう。そして同年の九月十一日には女子が生まれきんと名付けられた。於菟氏が、美しい娘で、多分養子だったと思うと述べたおきんちゃんである。きんを生んだときのせきは十七歳だったが、しかし栄助との夫婦生活は長続きせず、二年後の明治十八年八月に至り、栄助は離籍して児玉家を去った。原因は不明だが、「雁」のお玉の身の上に起こったようなトラブルがせきにもあったのではないか。
(木龍注:「せき」と「きん」には圏点あり、引用中以下同)

森 於菟著『父親としての森鷗外』

続いて「雁」の該当箇所についても引用されていますが、それは省きます。
なお、ここに登場する木内栄助は佐助のような兄とは別の人です。佐助のような兄は養子に迎えてから5年後に離縁したことが書かれており、木内栄助という人がその後に現れました(なお、からの1文、2022/05/11追加)。

児玉一家の場合は、栄助が立ち去った翌月、父親伊之助の生地千住仲組へ舞い戻ったが、その翌年の明治十九年春に頼みの伊之助が死に、女ばかり三人ぐらしになった。せき二十歳、きん四歳、母なみが四十七歳であったが、せきは生活の担い手にならなければならなかったらしく、そしてせきは習い覚えた音曲の師匠で暮らしを立てたようで、児玉家の菩提寺源長寺の住職蓮波善澄師の回顧によれば、彼女は哥沢の名取りで三味線の達人であったという。

森 於菟著『父親としての森鷗外』

せきさんが子供を産んだ年齢と、父の死(春琴の場合は春松検校の死)と音曲の師匠になった年齢が春琴と重なります。さらに、『ヰタ・セクスアリス』に登場する琴の天才お麗さんを引いて、彼女にはお兄さんという婿養子が同居していて、その養子と一緒になりたくないという点は一致していると書かれています。このお兄さんについて、『ヰタ・セクスアリス』では

余程お人好と見えて、お麗さんに家来のように使われている。

森鷗外著『ヰタ・セクスアリス』

と書かれています。

赤松登志子さんと別れた鷗外と初婚に破れたせきさんは、鷗外の母の紹介で結ばれ合いますが、それは後に鷗外が「美術品らしき妻」を芝の荒木家からもらうまでのことでした(登志子さんとの離婚の理由について、重大な指摘が戸籍と共に掲載されています)。

その後のせきさんについては、次のように書かれています。

せきは七十五歳まで生きて昭和十六年十月九日に没した。美しい娘のおきんちゃんはどうしたか。――鷗外が再婚したときせきは三十六歳で、一人娘のきんは十九の女ざかりだった。きんには和三郎という婿養子が迎えられ、まもなく長女澄が生まれた。そして児玉せきにも平和な晩年が続くかとみえたが、ある晩家の中に揉めごとが起こり、もののはずみでランプがひっくり返り、きんはそのときの火傷がもとで二十五歳の若い生涯をとじた。この揉めごとの種が何であったか。(中略)転居しているが、この家にしばらくすると離別した先夫の栄助がきて一緒に暮らすようになったのである。

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』

婿もすでにいる中トラブルになり、不幸な火事が起こり、結局栄助が去り、和三郎が戸主を相続していますが、この「和三郎」という名前が次につながっていきます。

この本にはその後昭和41年になって森家にゆかりのお寺である三鷹禅林寺でせきさんのために一遍の供養をしたいと訪ねた老人がいたことが書かれており、その老人が晩年に養子にも見放されたせきさんを一人看取ったそうなのですが、いったい誰だったのか。著者は今もってわからないと書かれていますが、わかっていたのではないかと、今の今、はたと思い当たりました。

その他にも鷗外についてはいろいろ書かれており(次の見出しが「江東と鷗外」「津和野と鷗外」ということで、谷崎周辺関連でもさらに興味深い)、書きたいこともたくさんあるのですが、児玉せきさんのことについて、著者は次のように書いて締めくくっています。

私が住職からこのことを聞かされたときに、私の胸には、区役所の倉庫の中のうずたかい除籍簿中から、まる一日がかりで遂に児玉家の戸籍を掘り出したときの感慨があらためてよみがえった。そして森家の遺族にとっては神聖犯すべからざる大文豪鷗外の光のかげに忍従の生涯を終えた児玉せき女のために、本稿を発表することはささやかな功徳だと信じたのである。ちなみに千住仲町三十四番地、浄土宗源長寺境内の児玉家の墓碑銘は次のごとくである。
   図入る
(せきさんの父母ときんさん、澄さんの名が右側に俗名で、左側にせきさんの戒名と俗名が彫られています)

石川悌二著『近代作家の基礎的研究』

次回は漱石について書きたいと思います。


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