見出し画像

不登校になって学校が好きになった

私は大人になってから、不登校という一つの社会問題(問題って言いたくないけど、あえて)に関わる保護者・支援者・教師が、どんな悩みや葛藤の中で、子どもと接しているのかを、やっと理解できるようになってきました。

「一番つらいのは本人」それもあります。
でも、大人になって思うのは「一番って何基準なんだろう?」という違和感。
「一番つらい人」というのは、「一番かわいそうな人」である場合もある。
不登校当時、私が何よりも嫌だったことが、「かわいそうに」と同情されることだったから、そう思っちゃうだけなのかなー。

正解はないんだけどね。

ただ私が、「一番は決めなくていい」とはっきり思う理由は、「それぞれの立場で、それぞれの葛藤と戦っている」ということを分かり合うことができれば、違う立場の人を非難したり、誰のせいって悪者探しするのではなく、「チームで解決しよう」っていう、それぞれの持ち場を発揮した、よりよいかたちにつながると信じています。

なんでかって、私がそうだった。

いつ思い出しても、学校へ行っていなかった日々は、かけがえのない、幸福な毎日だったと思えています。
そして自分から「学校へ通いたい」と思えたことと、その後の学校生活も、不登校だった頃と同じだけ、私は心からたのしかった。

こんなこと、自分でいうのも変ですが、自分の子どもや生徒に、そう思ってもらいたくないですか?

誰だって、幸せな思い出を抱いて、大人になりたい。
子どもの頃の楽しかったこと、大変だったけど「よかったなぁ」と思いえること、もっといえば、将来、お酒でも飲みながら「あの頃はさ~」って笑い話ができる日を、きっとみんな目指していると思うんです。

けれども、保護者や学校側のお話を聞くと、「目の前の悩みが複雑で、今までにやったことがないことだから、どうよくなっていくのかイメージがわかない」という、前向きではあるものの、現実は「困惑して動けていない」という印象を感じました。

そのことがきっかけに、私の中で、
不登校になったから得られた幸せや、不登校になれたから好きになったことが、こんなにたくさんあります。っていうことを伝えたいなぁって気持ちがふくらんでいきました。

これは、学校へ行くことが「普通」から、学校へ「行かなくてもいいんだよ」という意見になって欲しいのではなく、「どっちもあっていい。大切なことはその子の思い」っていう価値観が世界が広がるヒントになればいいなぁと思ってます。

これから数回に分けて「こんな風に大人と関われたことが、よかったと思ってます」ということを書いていきます。

どうぞよろしくお願いします!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?