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なぜ、生活困窮支援をおこなうのか(南九州新聞20220416掲載)
「どうしてたにかつさんは生活困窮支援を行うのですか?」
先日、オンラインでおこなっている伴走型支援者養成講座にて、このような質問をいただいた。はて、私はどうして生活困窮者への支援をおこなっているのだろう。
最初に考えたのは、私が過去に、一般に言う生活困窮者(世帯)であったという事実だ。大学を中退して以後、私は限りなくホームレスに近い状態で暮らしていたことがあるし、今でも日本の、そして鹿児島の平均世帯収入よりはるかに低い収入で生活している。それでもまあ、困っている人の支援をしているうちに生活困窮の問題も無視できなくなってきて、寄付や支援物資もおあずかりすることができているので、それを持って支援活動をしている。
そう話していて感じたのだが、ひょっとしたら、この質問者が言いたいのは「生活困窮者は、自己責任においてそのような立場にいて、つまり、自己の能力と選択の結果により生活困窮状態にあるのであって、そのような人を支援する必要はないのではないか」という文脈から質問をしているのではないかということに思いいたった(発言者の顔が見えず、気配を感じることができないオンラインにおいては、相手の発言の真意のようなものを測るのは非常に難しい)。
急に話を変えるのだが、今年の早稲田大学の入学式で、映画監督の是枝裕和さんがおこなった祝辞が話題になっている。「早稲田大学 祝辞 是枝」で検索すると見つかると思うので、関心のある方はぜひお読みいただきたい。祝辞部分の骨子はというと、「(早稲田大学に入学することができた)君たちは恵まれている。そのことを自覚した上で、あなた方の周りに恵まれていない人がいるということに気づいてほしい。そして、あなたがその不幸や不平等に加担していないか、そのことを自らに問うてください」とおおむねそういう感じである。
私は、かつて、生活困窮者だった。今もそうかもしれない。でも、そのことと今生活困窮支援を行っていることは直接的には関係が無い。
社会に不幸や、機会の不平等がある限り、それは、いつか、私にも、そして、今は平穏な暮らしを送ることができているかもしれないあなたにも牙をむくことがあるかもしれない。
その意味において、私は、かつて生活困窮状態にあったからとか、これからなるかもしれないから支援活動をおこうのではなく、この社会における機会の不平等が、構造として許せないという、強い気持ちがあるのかもしれない。
そうしてまた、その怒りとは別のところで、「困っている人がいれば、その理由に関わらず助ける(自分にできることであれば)」という、きわめてシンプルなプリンシプル(自分が第一に優先する価値観)に基づいて行動しているだけに過ぎないのかもしれない。
人が何かをする(あるいはしない)理由はひとつではない。
もちろん、行動する本人にもわかっていないことや、わからないことも多い。
可能であれば問うてみたい。
「なぜ、あなたは生活困窮支援をおこなわないのですか?」
お読みくださりありがとうございます。 いただいたサポートは、NPO法人ルネスかごしまが行う「生活困窮家庭・ひとり親家庭支援」に全額使わせていただきます。