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介護殺人

介護殺人のニュースに触れると、見ず知らずの誰が、私の代わりに殺人を犯して社会にSOSを出してくれたのかもしれない、と思う。

私の精神は、人を殺めてしまうギリギリのところにあるのだと。

介護者が介護殺人に至るまで追い詰められてしまう心のさまがわかる。頭でわかるのではなく。
何が辛く、何が悲しく、何に耐えられないのか、私とその人とでは違うだろうが、「わかる」と感じる。

私は夫を殺したいと思ったことはない。それは環境が恵まれているからだ。
私は30代で体力も気力もあり、ある程度の人生経験を積んでいて自分のことで手がいっぱいという若さでもない。経済的に困っていない。将来の夢がある。さらに、とても重要なことが、心が折れたときSOSをだせる人たち、私の心を助けてくれる人たちがいる。我が家にないのは、介護を分担できる家族・親戚だが、それも、口は出すのに手伝わない家族・親戚がいるよりは、スッパリといない方がそのストレスがなくていい。

それでも、私は、夫に「死ね」と思うときがある。怒って家を出ていこうとする夫に「このまま1人でどこかに行ってしまえ。消えてしまえ」と見捨てたくなるときがある。実際に、夫にそう言ったこともある。
自分が壊れながら、なおも戦わなければならず、逃げ場がない。自分で自分をなんとかするしかない。誰も助けてくれない。孤独感。私には孤独を予防する手立てがあるのに、それでも、その隙をついて襲ってくる。
孤独、とても危険な感情。
介護殺人は、単純な1つの要因が引き金を引いているのではなく、複数の要因が絡みあって引き金を引くのだろうが、その1つは、間違いなく孤独だ。

介護殺人は殺人事件なのでニュースになるが、介護自殺は自殺なので心中以外ではほとんどニュースにならない。でも、自分を殺しているのだから、自殺も殺人だろう。

介護殺人あるいは介護自殺が1件起こっても、社会はほとんど変わらない。では、もし、介護殺人あるいは介護自殺が1カ月に10件立て続けにおこったらどうなるだろう。政府や行政は動くだろうか。社会の目を気にして。社会の目ではなく、身近な問題として、行動する人々も増えるだろうか。それとも、なにもかわらないだろうか。

殺人、自殺は、人々に衝撃を与える。けれども、その衝撃の持続力はあまりない。それは人間の防衛本能なのだろう。不安を持ち続けることは、心に負担がかかるから。

孤独が引き金を引いた殺人、自殺が増えている。
自殺でニュースになったあの若い命も。
あの若い命は、もしかしたら、人と触れ合うことがこんなに難しくならなかったら、今でも生きていた命かもしれない。

コロナで死ぬかもしれない命と、孤独で死ぬかもしれない命、どちらを守るべきなのか、私はわからない。
私は、私が助けられるかもしれない命を助けたい。

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