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雑記|ビリビリ

体がここ数日、痺れていた。
比喩ではなくマジで。
足の裏が正座して20分とかの時に痺れる感覚あるじゃあないですか。
アレが寝てても歩いててもあったんですね。

いよいよか?とか思ってたのですが、とあるドラマの締め切りを書き終えて、提出したらとまりましてね。そう言うやつ?と思ったらそう言うことの様でね。

ここ半年は穏やかな生活を心掛けつつ、振り返ればすごいスピードで外側に引っ張り出されていましてね。

脚本を書いたり、演出をつけたりしておりまして、詳しい現場の皆様が言うにはそれは監督という仕事らしく、いえ私は芸人で脚本家に留まっておりますよと伝えつつ、演技に対しては熱くなりまして周りの誰よりもこういう感情の流れのはずだなんて言ったり、お前は何もわかってねぇ創作とはそんなんじゃねぇとか偉そうにも叫び散らかしております。

当たり前ではないのです、自分の書いたモノを誰かが演じてくれるのも、形にしてくれるのも、お金を貰えるのも。

当然のこと、忘れてはいないのですがどうしても、筆が進まない日もありますし、ビリビリとしている感覚に苛まれて終わる日もある。

その締め切りの日、単身で、とあるオフィスに台本六本を抱えて挑みまして。対面する武道家が構えで相手の実力がわかるような張り詰めた空気で担当者というか協力者というかに台本を見せるわけです。

サラッと目は通してくれていた上で「ちょっとよくわからないところがあるから、1人で読んだみて聞かせて欲しい」と言われたのです。私はね、ピン芸人ですから、なんてことはないのですが、やはり、それは震えるモノで、一作一作を心の流れに重点を置いてお話を演じました。

この日、この瞬間、凄くここで面白い体験をします。

あんなに不安げに私を見ていた、担当者というか協力者達が「は?え?おもろ?え?あ?そういうかんじか?え?そことここが?え?うわ?おもろい」ってキラキラしていったんです。

これは勝利と敗北の混ざった瞬間でとても印象的でした。書いている世界は面白いけど一切伝わっておらず、そこに自分が自分に一番評価を与えてない演技によって伝わったという《芸人》としては極当たり前の行為によって《脚本家》の私は救われたわけです。

結果的に全部おもろい!OKと言われまして。この二週間他の仕事をしながら頭を抱えていた仕事が半分以上終わった瞬間でした。

そして、「それはそうと、映像にする脚本ではなさすぎるからわからなかったんで、教えます」とト書きの書き方をすごく丁寧に教わる日となりました。

面白さや言語感覚ばかりにとらわれておりますが、そもそも脚本家としてはフィジカルだけでやっておりますから、書き方とか伝え方がグローバルスタンダードではないわけです。路上の喧嘩スタイル、ストリートファイト的な文章では、プロには行けないわけです。

逆に言うと、私は知らない間にストリートファイトで大きなお金の流れの中に、プロの領域に入り込んでいたところ、彼等に教えてもらえると言う命拾いをした瞬間でもあるわけですね。

教わったことは簡単に言うと、セリフの前後や物語描写としての《こういう表情が画として撮っておいてね!》とか《このシーンのこのセリフはこう言う意味だから、こういう風に撮ってね!》が伝わるとがのこと。

なるほど、僕はセリフや状況のことは考えていても、映像という観点で言葉を紡いでいなかったんだなと気がつきました。

ルールを教わるとすごくスラスラとかけたんです。なんかこう、ゲームでガードボタンと2段ジャンプ出来るのを教わった様な快適さでした。ぬるぬる動くやん。

帰りにフラフラ歩いておりますと、大阪時代によく通った定食屋が東京は新宿にあり、吸い込まれてご飯を食べました。

とても不思議な気持ちになりましてね。
東京にいるんだなぁと7年も経つのに思い。
芸人として頑張っていたはずが、文章を書き、映像になる基礎となる脚本を書き、割と通用しかけてる。これは大阪から夜行バスで出る時の目的地ではないのですが、明らかに誰かの夢じゃないですか。

脚本も映画も誰かの夢ですし、多くのそこにいる人の夢じゃないですか。果たして良いのかな、なんて思いながら紅鮭をカッ喰らいます。

別日。
また別の映像の現場に急遽立ち会います。
カチンコを渡され、あなたが演出つけてくださいと監督プロデューサーのお二人に言われます。
今日の内容も今知ったけれども、そんなことは出演者さんには関係ないのと、難しい話でもなかったので、一生懸命伝えます。映像のことはわからないので、キャラクターの感情の流れはこうだから、こんな動きや表情になるはずだ、ここが盛り上がりだからここに向かっていきましょう、今の良かった僕なら出来ない、今油断してた顔はシャキッと。。とか必死でやりました。

終わってから、夏とアイスコーヒーのありがたみを感じてると、えらく褒めてもらえまして。良かった、監督が求める動きをしていたよ、今日君がした仕事の名前が助監督って言うんだよと言われました。監督が言いたい事の代弁をしたりする事らしいです。

芸人の僕ならこうするってのをしながら、出演者のモチベーションを上げるために笑かしながら、脚本をふまえて、演技をつけてたんですって言うと、その笑かしながらってのがめちゃ良いとこですよとも言われました。

またしても、芸人の自分に救われたのです。

両方自分でいいのに分離させて、それぞれの役割の話をしたがる。
そうではなくて、柔和させて、境界線をなくして、混じり合う時期に来ているのだなと思うのです。むしろ、脚本家としての自我が、芸人でありたい自分を「当たり前だこっちに来い」と手を引いている様な感覚があるのです。

面白いモノを作るということは本当に大変です。ビリビリしてます。

でも最近、色んな人と出会い、色んなポジションからクリエイションをしている姿を見る。

芸人はいつもどこか、自分達をスペシャルだと思っているけれど、それが愚かで素晴らしいのだけれど、実は色んな角度のクリエイターがいて、それを混ぜていくと、とんでもないエネルギーが生まれるんだと思うのです。そのための設計図を作るのが私の仕事になりつつあるのです。エネルギーの循環する道筋。それはつまり。生きる事の肯定。

もっと作るけれど、その為に今日はおやすみ。