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【美術館記録】Masculinities: Liberation through Photography 男性らしさの変化を写真を通じて見る Gropius BAU


Masculinities: Liberation through Photography

ベルリン、ポツダム広場近くにある、美術館GROPIUSBAUの展示へ。
GROPIUSBAUは戦前からある工芸館を改築した美術館で、建物自体だけでも、非常にみる価値がある。 ロックダウンで1ヶ月美術館も全て閉まるため、それを見越して私のようにロックダウン直前に美術館に向かう人が多く、時間制のチケットを予約下にも関わらず、長蛇の列。。。
ただここで逃したら、次見えるのは来月(それも定かではない。。。)になるので、頑張って並び入場した。


この展示は、時代を通じて男性像がどのように変化したのか、写真から辿る展示であった。
マッチョやワイルドさを前面に出すことが男性像として、位置付けられていた頃(1960年代)から、軍として活躍することが男性としての誇りだとされていた頃、queerカルチャーが世に出始めた頃など非常に細かくセクションに分かれていて面白い。

最初に展示されているのは、いわゆる北米の「男性らしさ」とはどういうものかがテーマである。兵士やレスラー、もしくは、殴られて服に少し血が流れている男性のポートレートなど。おそらくアジア人の私でも、「男性らしさ」と結びつけることができる。

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様々な世代の白人男性が、自分でギブアップと決めるまで叫び続ける映像

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また、これらは60年代のイメージなのにも関わらず、そこから60年経った今でも同じような固定観念に囚われている自分に驚く。そして、この考えも「西洋」の考えがいつの間にか昔から染み付いているのかもしれないと考えると、この展示は「男性像の変化」だけでなく、西洋(白人)優位主義の歴史ともいえると感じた。

このように大統領など西洋でいわゆる「成功した」男性たち(時々女性)のポートレートを並べて展示されている。

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この展示では、これだけでなく至る所で同じテーマの写真を「並べる」ことでその年代でどのような男性像が求められ、受け入れられていたのかみることができる。 次に写真が普及することで、家族の年変化や状況の変化も写真と残すことができることをフューチャーした展示につながる。

ここでは、日本の写真家、深瀬昌久の作品も展示されている。ここで、写真がポートレート(肖像画)としての役割だけでなく、日常を切り取り「男性らしさ」はなく、「父親像」がどのようなものだったのか、みることができる。

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そして、次の「Queering Masculinity」(同性愛としての男性さしさ)のセクションでは同性愛が法律で禁止されていた頃、同性愛の正当性を示すために、写真家たちがゲイのライフスタイルを撮影した作品たちが並ぶ。それは、語弊をうむ表現があるかもしれないが、まるで普通の男性の生活の様子を撮影した作品も沢山あり、それが逆に目立つ。 そしてその次に黒人をテーマにしたセクションでは、白人の視点(white gaze)から見た、彼らのアイデンティやファッションについて取り扱っている。


ここでは、黒人の普通の生活風景と男性の体の形などを特徴付けた写真(よくみる白黒写真を用いて、肌の黒さを特徴づけるような写真)両方展示されていることで、違和感を覚えさせる。それは、上記であえて「白人の視点」と書いたように、白人が黒人の肌の色をあえて意識させることでそれを強調させていることへの皮肉も込められているように思えた。 最後は、1960-70年代におきたフェミニズム活動第二波に注目し、その際に男性像がどのように捉えられていたのか展示されている。


例えば、典型的な男性・女性・カップル・家族が写真を撮るときのポーズのパターンを集め、お互いのポーズを変えた作品や、女性が写真撮影をしたときに起きたことが写真の下に文章で書かれた作品など。女性がこの時代にどのように捉えられていたのかも見て取れる。 その女性が写真を撮ったときに起きたことが書かれている作品では、今でもある女性を卑下したような男性の発言が描かれており、「誰が」写真を撮ったかで作品の印象が変わることがわかる。

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それは、この展示全てに言えることで、各セクションで「誰が」撮影した写真をフューチャーしたのかで来場者の受け取る情報がかなり変わってくると感じた。それは、おそらくキュレーター側も気を使っていたように思え、各セクションごとに「誰の目線」で撮られた写真をフューチャーしているのかを丁寧に書かれていた。


「男性像」の意識の変化がテーマだが、西洋と東洋、黒人差別やフェミニズム、今まさにまた話題に上がるテーマを取り込んだ内容で非常に見応えがある。また、みていると私自身もその「男性像」を押し付けていたような気がして反省する部分があった。とはいえ、「白人の男性」というのはなんとも強力というか、もうちょっと深堀しなければいけないテーマだと感じる。まだ、噛み砕いて書けないけれど…


一昨日、東さんと國分さんの講演会をネットで見ていて、これからの政治は、俳優とかスポーツ選手が出てくる時代を行っていたことにもつながるなあと感じた。その講演会では、結局大衆は知識人や科学者を求めていなくて、俳優やスポーツ選手など見た目やマッチョさにいっている。かなり考え(といっていたか忘れたけれど)後退していると言っていたことが、まさにこの展示の一番最初にある男性に求める像が見た目の良さや力のパワーメントの強さだったことに通じて、ああ、後退しているのかもしれない...としみじみと感じた。

また先月、写真家ヘルムートニュートンの美術館に行った話をすると、彼は、主に女性の体の形の美しさを扱った作品を多く残しているが、私はこの美術館の展示を見てかなり混乱してしまった。すごい奇抜な格好やポーズをした女性たちの写真が並ぶ中、それをアートとして扱ったらそれまでなのだが、単にポルノ雑誌の写真じゃないか、と思えるものも多々あり、いい思いはしなかった。それはいわゆる男性が求める「女性像」を男性の目線から撮っていて、それが流通することで「理想の女性像」を植え付けるものにもなりかねないな、と。それくらい写真は直接的に人に影響を与えるから、気をつけなければいけないとも感じた。


まあ、それが今や映像になっているからより一層怖い部分もあるのだけれども…

とはいえ、この展示はただ単純に「男性像の変化」をみるものではなく、時代の流れを見て今起きているBLACKLIVESMATTERやフェミニズム運動も、誰の視点で見て、発信をするかで受け取り方が変わるということも学んだ気がします。

また、男性・女性の問題もあるけれど、人種問題はかなりヘビーできちんと考えなければいけないことだと感じる。特にBLACKLIVESMATTERなども「白人の男性」からどのようにこの問題を受け取り、発信するかがキーになるのだと思う。


この写真展が取り上げている年代から60年たった今でも、少し前進したかな?ぐらいで解決していない問題を思い出し、考えさせられた非常に良い展覧会でした。