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ChatGPTに環世界の概念は存在するか

先日、興味深いニュースが目に入ってきました。
それによると、AIの研究の進歩が著しい現代においてユクスキュルが提唱した環世界の概念が再注目されている、というのです。

今回はこうした背景から、現代における「ChatGPT」と「環世界」の関係性について、私なりの視点から考察していきたいと思います。


環世界(Umwelt)とは

そもそも環世界(Umwelt)とは何かというと、ドイツの生物学者であり哲学者でもあるユクスキュルが提唱した概念であり、簡単にいうと「それぞれの生物が行動する上で意味となるものが対象として浮かび上がる世界」です。

この概念を提唱している「生物から見た世界」という本の、人間とミツバチの環世界を例に挙げます。

人間とミツバチの環世界の違い

(a)が人間が見ている環世界で、(b)がミツバチが見ている環世界です。

人間は植物の花弁・茎・葉といった要素や山の景色、花の上に止まっている虫といった様々な物体を認識している一方で、ミツバチは花の蜜しか認識していないことに気づくでしょうか。

これについて、ユクスキュルはこう述べています。

環世界の研究では、意味の関係こそが唯一の信頼できる道標である。ミツバチにとって意味があるのは花だけであって、つぼみには意味がないのである。

ユクスキュル/生物から見た世界

つまり、ミツバチが求めているのは花の蜜だけ出会って、その他の物体は彼らにとって関係のない要素であるため、ミツバチの環世界には存在しないと同義なんですね。


技術の進歩と環世界

環世界が提唱された当時から人間の技術が進歩するにつれて、人間以外の生物の環世界を解明しようとする動きが見られるようになりました。

その最たる例が、2017年に「ゲームを通じてあらゆる生物の環世界を見る」ことをテーマに制作されたEverythingではないでしょうか。

このゲームはこれまでなかった「環世界をシミュレーションする」というコンセプトから大きな注目を集めました。

※最近だと、他の生物の環世界に基づくインターフェース(=環世界インターフェース)を作るAug Labの活動が特に面白いと感じました。

このように技術の進歩に伴い様々な分野で環世界という言葉が使われはじめ、現代のテクノロジーにおける重要な概念の一つになっています。

こうした背景から、「現代テクノロジーの代表ともいえるChatGPTを環世界の解明に何かしら利用できないか?」という疑問が出るのは自然なことなのでしょう。

それでは実際に、ChatGPTを用いて環世界における何かしらの示唆を得ることはできるのでしょうか?


ChatGPTに環世界の概念は存在するか

というわけで今回は、「ChatGPTに環世界という概念が存在しているのか?」という前提を確かめるための簡単な実験を行なってみました。

実験の設定としては、前述した人間とミツバチの例を用いて

  1. ChatGPTに人間orミツバチとして振る舞うように指示する

  2. その上で、「植物が茂る草むらにいる」ことを条件づける

  3. その状態で視界に映る景色を画像として出力させ、人間とミツバチの視界の画像を比較する

もしもChatGPTに環世界という概念が存在した場合、人間とミツバチの視界の画像に前述した例のような違いが見られるのではないでしょうか。

人間の場合

人間の場合の出力画像は以下のようになりました。

ChatGPTが出力した人間の環世界(仮)

面白いことに、何度繰り返しても上記のような草木がメインの画像になり、たんぽぽや朝顔のような花は登場しない画像が生成されない結果となります。

これは、ChatGPTが意図的にこうした画像を出力しているのでしょうか?

ミツバチの場合

次に、ミツバチの場合の出力画像を見てみましょう。

ChatGPTが出力したミツバチの環世界(仮)

これまた面白いことに、先ほどの人間の場合とは打って変わって、花が中心に描かれた画像が生成されました。

こちらも人間の場合と同様、何度生成させても花冠をメインにした画像が出力されるという結果になります。

前述した環世界の概念に照らし合わせてみると、この結果はChatGPTが意図的に出力している可能性が高いと言えます。

これは言い換えると

「ChatGPTの中に環世界という概念が存在する」

ということになります。

ChatGPTと環世界、中々に考察しがいのあるテーマですので、またどこかのタイミングで考察したいと思います。

今回はこのへんで。


終わりに

今回は人間とミツバチという例を挙げましたが、もちろんこれは私達人間同士においても同じであり、「私達人間はそれぞれ別の環世界に生きている」と言えます。

一方で地球全体で見ると、私たちは一つの大きな環世界の法則に従う存在であると考えることもできます。

話がそれますが、私は人間や社会との関係に疲れた時に、何度もこの考え方に救われたのを覚えています。

この点に関して、為末大さんのnoteを引用させていただくと

生物学者であったユクスキュルは「環世界」という概念を提唱しました。

環世界は、生物が自分の感覚と行動を通じて知覚する独自の世界のことです。それぞれの生物は異なる環世界を持ち、これにより同じ環境でも異なる認識と行動をします。例えば、犬は匂いを重視し、人間は視覚を重視するため、同じ場所でも異なる経験をします。

私たちは自分で考え行動し、社会にアプローチしていると感じていますが、距離をとってみるとある法則に従って蠢く一個体にすぎないのかもしれません。蜂一匹は自由であるように見えて、全体で見れば一つの生命体的群れの一部であるかのように。
(中略)
この考え方でいけば、自由意志を持って行動する私たちは、ある環世界を生きていながら、その環世界を取り囲む地球環境維持の法則に従う存在となります。自由意志だと思っているものも、花を見て寄っていくことで、花の生息地域拡散を手伝う蜂のようなものかもしれません。

つまり、現代に生きる私たちは、良くも悪くも自分を特別視しがちですが、「環世界」の概念から見ると、私たち人間もまた自然界全体に組み込まれた部品でしかない、ということです。

特に大学生ぐらい年代は、自分の社会との関わり方に思慮を重ね、その過程で精神的に不安定になる多感な時期でもあります。

私はそうした時期に、「どれだけぐだぐだ考えても、私もどうせ地球全体の一つの部品でしかない」とある意味で吹っ切れることで、何度も救われた経験がありました。

虎杖マインド、大事

ChatGPTとは関係ありませんが、今現在、社会との関わり方に悩んでいる方の参考になればと思った次第です。

最後に、私の好きな思想家であるエミール・シオランの一節を紹介して締めたいと思います。

毎日、次のように繰り返すべきである。

「自分は、地球の表面を何十億と匍いまわっている生き物の一匹だ。それ以上の何者でもない」

この陳腐な呪文は、どんなたぐいの結論をも、いかなる振る舞い、いかなる行為をも正当化する。
遊蕩も、純潔も、自殺も、労働も、犯罪も、怠惰も、反逆も。

…..かくて、人間は各自、自らの仕業にそれ相当の理由を持つことになる。

E.M.シオラン/生誕の厄災

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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