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自分の名前は好きですか。 「田中裕子」と長すぎる思春期について

ふと見ると、noteに「#名前の由来」というお題が提示されていた。

それを目にした瞬間、「読むものか」と思った。親の思い、名前への愛着、微笑ましいエピソード……目に入れてなるものか。

と、こうやっておそろしく狭量なことを堂々と思えるようになったのも、けっこう最近の話。「けっ」と言えるようになってよかった、という話を書く。

=  =  =

わたしの「田中裕子」という名前は本名だ(そりゃそうだ、ペンネームでそんな名前つけないだろうと思われるだろうけれど、「逆にフィクション感がある」と言われたことがあるので一応断っておく)。わたしはこの名前がずーーーっとイヤだった。恥ずかしくてたまらなかった。

だって「田中」+「裕子」ですよ、近くにいます? そんなミレニアル世代。フルネームを笑われたことは数えきれない。せめて「神宮司裕子」とか「田中美月」とかだったら……と授業中に妄想し、ノートに書き出すのはほぼ日課だった。

ちなみにわたしの年だと「子」がつく女子はだいたいクラスで2,3人で、中学生時代は「うちらレトロだよねえ」と言い合っていた。とはいえ、そのうちのひとりは島津家の末裔で致し方なしだったし、同じ「子」界でもグレードが違ったりして(「薫子」とか)、鬱々。

しかし、名前とは一生ついてまわるものだ。思春期のわたしは「好きにならなきゃしんどいぞ」と気づいた。でかいコンプレックスを抱えて生きていくことになるぞ、と。

そこで田中裕子は、「〝田中裕子〟を好きになるプロジェクト」を発足した。ゴールはいい名前だと納得することだ。どうすればいいだろうと考え、とりあえず「いいところ」を探すことにした。具体的には、好きの欠落をメリットで補うことにしたのだ。

「画数が少なくテストで得」「顔がバタくさいからちょうどいい(?)」「(相手が年輩に限るが)女優と同じ名前で盛り上がる」「エゴサできないから精神衛生上よい」etc...

田中裕子でよかった。あっさりしてて、いい名前だよね。好きだよ、好き。





しかしね、これは経験からの持論だけど、「好きになろうと努力した男」は絶対に好きにならない。高収入、エリートパイロット、元気で留守……極上のスペックを羅列しても、ピンと来ない人はどうしたってピンと来ないものだ(史実)。

スペックでは、好きの滑落を埋められない。それは名前も同じだった。

なぜそのことに気づいたか。20代後半に入り、自著を出す可能性を頭に浮かべているときのことだ。どんなテーマで、だれにインタビューして、編集者はこんなひとで、カバーはこうして……と考えているなかで気づいてしまった。

装丁に置かれた「田中裕子」の文字列を想像し、反射的に「やだな」と思ったのだ。

そして正直に自分の胸のうちをのぞいてみると……思春期のころとなんにも変わっていなかった。飲食店の予約を入れるときは「偽名だと思われてるんだろうな」と被害妄想に襲われているし、雰囲気のいい名前の友人には嫉妬している。

田中裕子でよかった、なんてとんでもない強がり。ぜんぜん克服できてない! 

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さて、そんなわたしも2年前に出産し、人に名前をつける立場になった。ウンウン唸り、顔と見比べつつ、願いを込めつつ、しっくりくる名前を考える。悩みに悩んで生後1週間、ようやく決めた。うん。たぶん、いい名前。

——はー、このひと一生この名前なのか。すごいな。

ひとりの人間に一生涯の名前を提供したことに、ちいさく高揚する。そして、はたと気づいた。

ああ、「親が一生懸命考えた名前じゃない感じ」なのも、すごく、すんごくイヤだったんだなあ。

実際、わたしの名前の由来は「画数」であり、それ以上でも以下でもない。姉も「○子」で同じ画数だ。まわりの子と比べると愛も思いもない名前に思えて(母は子どもに一切「かわいい」と言わない等々、やや謎めいた教育方針の持ち主だったこともあり)、無意識に苦しくて、強烈にコンプレックスだったんだ。

むかしのひとの名前なんて、そんなもんだったのになあ。時代だねえ。

——もう、好きじゃない、のままでいいや。

そう思うと、なんだかどうでもよくなっていった。

どうしてそう思えたのかは、よくわからない。けれどあえて理由をつければ、自分が親になって親の子育てをフラットに評価できるようになったこと、自分がされてイヤだったことを子にしなかったこと、これから自分がされたかったことを存分にしようと思えたこと——いくつかの理由が重なって、コンプレックスがいくぶん昇華されたのかなと思う。後付けかもしれない、わからない。けれど実際、かわいい名前の友だちに心から「いいね」と、正直に「うらやましい」と言えるようになったからよいのだ。「#名前の由来」は読まないぞと狭量なことを素直に思えるようになったから、よいのだ。

「自分のコンプレックスを個性にしよう、好きになろう」、ときどき言われることだけど、わたしの場合は質の悪い努力だったと思う。好き/嫌いの感情を無理やり変えようとしても、結局もとのかたちに戻っていく。「好きかも」は永遠に思い込めるほど、甘いものじゃない。本心では惹かれていない高スペパイロットと結婚しても、いつか離婚していただろう。

わたしにとっては、〝田中裕子〟を好きになることより、「好きじゃない、なぜなら」と言えるようになることのほうが大事だった。そうして直視したほうが、ずっとはやかったのにな。

ああ、笑っちゃうくらい、ずいぶんと長い思春期だった。



いまも仕事に疲れると、ペンネームどうしようかなあ、なんて想像して愉しんでいる。ペンネームとしていちばん憧れるのは、最相葉月さん。美しい。

batons社長の古賀さんには、「いっそ〝ジェーン・スー〟みたいな感じにしたら?」と言われている。

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