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わたしと娘は、おそろしいほどに違うものを見ている

3歳の娘は、ずっとおっとりしている。「活動的ではない」のほうがしっくりくるかもしれない。「床に落ちているものを掃除機のごとく口に入れる」0歳児の洗礼が一切なかった。引き出しを勝手に開けることも泥だらけになることも、目の届かないところに駆けていくことも、ケガをすることもない。気になるひとやものに対しては身体を動かさないままじいっと見つめ、ふっと目を逸らす……そういう子だった。

もちろん彼女は最高にかわいくて、おもしろい。いいところは書き切れないし、そもそも「いい悪い」の存在ではない。

けれど親として、戸惑うこともあった。「これで遊んでみる?」「いや」「あっちに行ってみる?」「いい」「なにがしたい?」「だっこ」……とくに外では、そんなやりとりをいつも虚しく交わしていた。

その性質は、3歳になってもあまり変わらなかった。自宅だと元気いっぱいなのに、公園では6〜7割の時間を「周りの様子をうかがう」に割く。人見知りとはちょっとちがう。公園には行きたがる。ただ赤ちゃんのときと同じように、立ち止まってはほかの親子をじっと観察する。満足いくと自分の遊びに戻る。またすぐに立ち止まる。

なにかを見つめる娘のじゃまをしたりはしなかったけれど、帰り道、いつも首をひねっていた。いったいなにを見てるんだろう、こんなに消極的で楽しいのかな……と。

それで今日もリクエストどおり、公園に行った。意外にも混んでいる。娘は、アスレチックつきのすべり台へトコトコ向かった。「いっしょにのぼろう」と誘われ、ヨイショと身体を持ち上げる。

公園内でいちばん高いすべり台のてっぺんに座った娘は、いつものように固まった。無表情のまま——どちらかというと不快そうな顔で、下に広がる景色をじっと見ている。幸い後ろにはだれもいなかったので、娘の背後でわたしもじっと待った。恒例の「無」の時間。風が冷たい。

しばらくして、娘が振り返った。ん? わたしを見てにこーっと笑う。

「みんなたのしそうで、よかったあ!」

心から満足そうに言って前を向くと、しゃーっと滑り台をおりていった。

……え、いま、なんて? 慌ててアスレチックをおりながら、彼女の言葉を反芻した。どきどきした。

まず、3歳って他者の幸せをこんなに自然と祝えるんだ、ということに。まさかひとりひとりの表情を見て、楽しんでいると判断し、「よいこと」と結論づけるなんて。それによって幸せな気持ちになれるなんて。まるで善良な王様のような言葉に、純粋におどろいた。

また、彼女はただ慎重さゆえに観察していたのではなく、そういう「楽しみ方」だったのかもしれない、と気づいた。人間が好き、あるいは興味があるからこそ、いつもだれかをじっと見ていたのかもしれない。不快な顔ではなく、集中している顔だったのかもしれない。

そしてなにより。

娘とわたしはおそろしいほどに違うものを見ているんだ、という、文字にするのが恥ずかしいくらい当たり前の、でも明確な気づきが身体じゅうをかけめぐった。まったく同じ高さ、同じ視点から眺めたはずの公園で、まったくちがうものを見ていた。おそらく彼女はこれまでも、わたしが「目にしながらも見ていなかった景色」をずっと見ていたのだろう。

視界のちがいと同じように、テンポだってまるでちがう。自分の目で見て、考え、感じきったときにようやく次の行動に移せる、そういうリズムの子なのだ。

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おとなになると似たものの捉え方や価値観、テンポを持つひとと過ごすことが多くなる。「同じものを見ている」と錯覚できてしまうような、心地いい仲間を自分で選べる。

そんな快適さに慣れきった人間にとって、子どもとは「同じものなど見ることはできない」とあらためて教えてくれる存在なのかもしれない。乱す存在。乱してくれる存在。わたしにとって、あたらしい風を吹かせてくれるのが彼女なのだ。

これから娘と一緒にすごす時間の中で、彼女の見ている景色を、彼女の言葉を通じて知ることができる。新鮮な視界をのぞき見できる。それはなんとうれしく、おもしろいことだろうか。

親として、同時に圧倒的な他者として。

干渉せず放置せず、気楽にいい距離感で、彼女の「見る目」を尊重していきたい。そして、お互いに見たものをおすそわけしあえる関係でありたい。それを存分に楽しみたい。

そんなことを思った、年の瀬であった。

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