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【インタビュー】ホームレスを追い続けるアットホームチャンネル・青柳貴哉が歩んできた「たまたまホームレスじゃなかっただけ」の半生

2020年にYouTubeで「アットホームチャンネル」を開設して以来、100人以上のホームレスを取材してきた青柳貴哉が、初の著書『Z世代のネオホームレス 自らの意思で家に帰らない子どもたち』を上梓した。本作にはチャンネルにも登場した“ネオホームレス”たちの取材後記や、動画には収めきれなかった膨大なエピソードが綴られ、1対1で真摯に関係を築いてきた青柳でなければ迫れなかったであろうリアルが詰め込まれている。

動画内では丁寧なインタビューでホームレスの生い立ちを引き出している青柳だが、彼自身はどのような人生を歩んできたのだろうか。チャンネルを始めた経緯は著書や過去のインタビューで触れられているが、バンドマン、お笑い芸人、AV女優のマネージャー、果ては河原で拾ってきた石ころの路上販売まで経験し、「たまたまホームレスじゃなかっただけ」というチャンネル開設以前の半生を語ってもらった。

●お金も家も家族もある「ネオホームレス」

――著書の発売おめでとうございます! まずは出版の経緯から教えていただけますか?

青柳:そもそも本なんか出せるような人間だと思ってないんですけど、ちょうど去年のいま頃に、タナカさんから週プレNEWSのインタビューをしていただいたじゃないですか。それと同時期にKADOKAWAさんからも「本を出しませんか?」という連絡をもらっていたんです。

――やっぱりモカさん(動画が600万回以上再生されたトー横キッズの15歳)の反響だったんですか?

青柳:そうだと思います。あの動画を出してから3社くらい連絡が来たので。それで最初に連絡をいただいたKADOKAWAさんと、どういう本にするか話し合うことから始めたんですけど、いろいろな案があったんです。僕の人生を本にするという案もあったし、ホームレスは重いテーマだから漫画にして見てもらえるようにしようかとか。いくつか選択肢があるなかで、今回は「ネオホームレス」をテーマにさせてもらいました。

――なんで「ネオホームレス」を選んだんですか?

青柳:うれしいことに動画にはコメントをたくさん書いてもらえるんですけど、モカさんのような若い世代や、ネットカフェで生活しているホームレスの方を取り上げると、「これはホームレスじゃなくて家出だ」と書かれることがあって。確かに法律的な定義(都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者)からは外れているかもしれないけど、僕は新しい形の「ネオホームレス」だなと思っているんです。

いま、家に帰ってない若い子たちがいるじゃないですか。金銭的事情でホームレスになった人たちが圧倒的に多いなかで、ネオホームレスと言われる人たちは金銭的な理由ではなく、家族もいて、帰る家もある状況でホームレスになっている。ということは、問題は内面にあると思うんです。そこはいま、僕自身が特に興味を持っているところで、今回のテーマに選んだ理由でもあります。

――確かに、最近見た動画でも「これはホームレスじゃない」というコメントを見ました。

青柳:コメントに1つ2つ返事をしても追いつかないし、だったら一切返事をしないほうがいいと思って、ずっとサンドバッグ状態でやってきたんです。モカさんの動画でも「なんで青柳さんこうなんだよ」って、いろんな人が疑問やわだかまりを投げかけて来ていたけど、僕は全然そこに答えてこなかった。あのとき僕が何を思っていたのかとか、実はこういう状況だったんだとか、今回の本はみなさんから寄せられたコメントに対するアンサーという面もあるかなと思います。

●チャンネルの意義をずっと自分のなかで探していた

――モカさんの動画は大きな反響があったと思うんですけど、あの動画で青柳さん自身の認識が変わった部分もあるんですか?

青柳:もともとアットホームチャンネルは、僕がホームレスの方にチョコレートをあげようとして怒られた経験から「ホームレスってなんだ?」と知りたくなってスタートしているんですね。でも、モカさんの動画を出したときに、「この動画でトー横キッズというものを知りました」というコメントがたくさん来て。自分が知りたくてやっていたことが、いつしか知らせる役目になっているんだなと思ったんです。

そこからは「知りたい」から「知らせる」に自分の意識が変わってきたなと感じていて。いまは目の前で起こっていることとか、自分が見聞きしたことを動画にすることで、世の中に知らせているんだっていう感覚が少なからずあります。だからインタビューをするときも、見ている人たちはここが気になるだろうなっていう目線を意識するようになったかもしれないです。

――使命感みたいなものが芽生えた?

青柳:そんなだいそれたものではないですけど、チャンネルをやっている意義をずっと自分のなかで探していたんですよね。「ホームレスを晒して」みたいなコメントももらうし、それを言われたら僕はぐうの音も出ないというのが正直なところなんです。

最近もホームレスの方をコンビニに連れて行って、好きな物を買ってあげると言ってレジに置き去りにした事件があったじゃないですか。彼らがやっていることと僕がやっていることは違うと思っていて。その答えがモカさんの動画をあげたときに、「そういうことだったのかな」と思えたというか。みんなが自分の目では見られない現状を、僕が代わりに足を運んで伝えることなのかなって。

――戦場ジャーナリストみたいな?

青柳:そんなカッコいいものではないかもしれないですけど。「ハゲワシと少女」の写真、わかります?

――ピュリツァー賞に選ばれた(ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている)写真ですよね。

青柳:そうです。あれをすごい思い出すんです。

――写真を撮らずに助けたほうがいいのか、写真を撮って知らせたほうがいいのか。

青柳:いまの自分にできることは、知らせることなのかなって。でも、こんな幸せなこともないなとも思っているんです。自分の知的好奇心を満たすためにやっていたことが、世の中にとって知らせる役割も担えていたから。

――その気持ちは僕みたいなライターも同じなので、すごくわかります。本を読むにあたって、著者として注目してほしい点はありますか?

青柳:動画では僕はインタビュアーに徹しているので、そのとき僕が何を思っていたかは、動画には入れ込めないことが多いんです。それが本を読めばわかってもらえるかなと思います。あと、取材しているなかでビックリした人がいて。公園に住んでいたんですけど、自分のツイッターでAmazonのほしいものリストを公開して、フォロワーから差し入れをもらっていたんです。僕、それが衝撃だったんですよね。

以前は路上に座り込んで空き缶を置いていたものが、ネット上にAmazonのほしいものリストを置いておくことに変わっていた。これは一例ですけど、そういうことを目の当たりにして、ホームレスに対する受け手側のアップデートが必要になっているのかなと感じたんです。そういう意味で「ネオホームレス」というものが、みなさんが言う通りただの家出なのか、それとも新しい形のホームレスなのか、僕なりに考えて書いたので、ぜひ読んでいただきたいです。

●動画では「はい」の2文字にも、1000文字くらいの言葉が詰まっている

――実際に本を読むと、動画にはなっていないエピソードがこんなにたくさんあるんだということにも驚かされたんです。本に出てくるのは4人だけですけど、それで1冊できちゃうくらいの文量がある。

青柳:めっちゃありますね。たとえば僕が動画のなかで「はい」と言ってる場面があって、文字としては2文字ですけど、その「はい」のなかには僕が感じ取った空気があったり、僕の質問している意図があったりするわけじゃないですか。それは動画で表現することが難しい。

――その「はい」に1000文字くらいの言葉が詰まっているわけですよね。

青柳:そういうことです。その1000文字の背景まで今回は本にさせてもらったので、動画を見た人はさらに楽しめると思うし、本を読んでから動画を見ても楽しめると思うし。ぜひ動画と合わせて楽しんでもらえたらうれしいです。

――やっぱり動画では表現できないことがいっぱいあるものですか?

青柳:電話やLINEもそうじゃないですか。実際に対面で会うと、相手の目であったり、醸し出す空気であったりから感じられるものがあるけど、電話やLINEでは伝わらない。動画も似たところがあるなと思うんです。動画に書かれたコメントを読んで、やっぱりそこまでは伝わらなかったんだなと思うことが多いので。そういうところまで今回の本で補えたなという感じはしていますね。

――僕としては全部の動画に解説ブログを書いてほしいくらいです。

青柳:それは現実的に厳しいのと、もうひとつやりたくない理由があって。僕のなかでは動画では足りないとも思っていなくて。さっきの「はい」でも、見る人によっていろんな解釈があるじゃないですか。それが的外れな場合もあるんですけど、僕はその想像の範囲が好きなんです。

――音楽の解釈みたいな?

青柳:まさにそうだと思います。こっちから「こうなんだ」っていう決めつけをしたくない。だからブログを書くっていうのは、完璧に伝えるためにはいいのかもしれないけど、そこで視聴者の思考を狭めたり、余地を奪ったりしたくない。そこを残しておくのが動画のよさでもあるのかなと思うんです。

――青柳さんが動画を発表するのは、ミュージシャンが曲を発表しているのと変わらない。

青柳:そうですね。音楽も映画も、そういう想像の余地を残しているものが僕は好きなので。どんな作品も、人間の想像の部分には勝てないと思っているし、そこから膨らませたものこそが本当の作品だと思うんですよね。

●何もない街だから自分たちで娯楽を作らなきゃいけなかった

――そもそも青柳さんは、芸人になる前はバンドマンだったんですよね。ここからは青柳さんがアットホームチャンネルを始める前の話を聞きたいんですけど、生まれは福岡県田川市で、どんな学生だったんですか?

青柳:わかりやすくクラスの人気者でした(笑)。

――やっぱり芸人になる人って、そういう人が多いんですかね?

青柳:僕は幼稚園から、ずっとそういう感じでしたね。自分のなかで「おもしろい」ということに対する価値は高かったです。

――人を笑わせることが好きだった?

青柳:好きでした。笑いのためなら自分を貶すことにも抵抗がなかったというか。若い頃って、カッコ悪いことはできないとか、あるじゃないですか。僕は笑いのためであれば「負け」も全然受け入れてました。

でも、学生の頃はお笑いをやりたいと思っていたわけではなくて。ただクラスの人気者で、勝手に「俺は大物になるんだ」と勘違いしていたというか。田川市って、とにかく田舎なんですよ。田んぼの田に川って書くくらいですから。

――確かに(笑)。

青柳:そのくらい何もないから、自分たちで娯楽を作らなきゃいけなかったんです。だから中高生の頃は、友達の家に集まって、ひたすらエピソードトークをしていたんですよ。いま思うと、それがお笑いに行ったルーツかもしれない。

――家庭環境はどんな感じだったんですか?

青柳:姉と弟がいて、両親がいて。僕は至って普通だったと思っているんですけど、田川は炭鉱で栄えた街ということもあってか、気性の荒い人たちが多いんです。外から来た人たちには、街ナカで聞こえてくる普通の会話が「ぶち切れてるやん!」と感じるらしくて。うちの親父もそういうタイプだったんです。怒られるときは壁の前に立たされて、ガス銃で撃たれたりとか。

――体罰じゃないですか!

青柳:母親に暴力とかはなかったけど、僕と弟は殴られたりしてましたね。もちろん悪いことをしたときだけですけど。母親は保育園の先生をしてて、すごいやさしかったです。姉ちゃんは学校で一番の成績をとるくらい優等生で、弟は僕と同じで勉強よりもクラスの人気者であることのほうが大事なタイプでしたね。だから弟とはめちゃくちゃ仲がいいんですよ。

――何歳差なんですか?

青柳:3つです。ウチの親父はあんまり教育に参加しなかったんですけど、「兄弟だけは絶対に仲良くしろ」ということは小さい頃から言われ続けて、おかしな距離感になっちゃったんですよね。いま弟は田川に住んでますけど、実家を出てから福岡でも東京でも一緒に住んで、30歳を超えてもシングルベッドで一緒に寝ていたし、僕は弟がいるリビングで普通にオナニーしてましたから。

――それは理解できない(笑)。

青柳:仲良くなるとお互い空気みたいな存在になるっていうじゃないですか。その究極系ですよね。

――ちなみに弟は青柳さんの前でオナニーしてたんですか?

青柳:しなかったです。あいつはビビってましたね(笑)。

●受験失敗の絶望を救ったナンバーガール

――Wikipedia情報ですけど、高校卒業後は福岡大学に進学したんですよね?

青柳:1年浪人しているんですよ。なんとなく学校の先生になりたいという気持ちがあったから、教育学部に行こうと思って、長崎大学を受けたけど落ちて、寮付きの予備校に入ったんです。そこで初めてちゃんと勉強したんですけど、次の年も落ちて、滑り止めで受けていた福岡大学の経済学部に入ったんです。

――教育学部ではなく?

青柳:だから大学に入ってから、なんで自分がここにいるのかわからなくなっちゃうんですよね。それで、やっぱり教育大学に行きたいと思って、仮面浪人するんです。大学1年の単位は捨てて、もう一回勉強して、センター試験でも過去イチの点数を出したんですけど、それでも落ちちゃって。

――それはショックがデカいですね……。

青柳:そんなことをしていたから、最終的には半年間留年することになるんですけど、2年生になるときは絶望的な気持ちでした。抜け出そうとしていた大学に、また通わないといけないわけですから。もし僕が人生で病んだことがあるとしたら、その時期くらいですね。「俺は一体何をしているんだ」と。

そこで初めて未来のことを考えたんですけど、普通ならパソコンを覚えようとか、英語の勉強をしてみようとか、そういうふうに思考が動くと思うんです。でも、僕はそのときに知り合いから誘われて、福岡の警固公園にフリーライブを見に行ったんです。

――また急な展開ですね。

青柳:僕、バンドをやってる同級生が多くて、ライブハウスに行ったこともあったんですけど、大きい音が苦手で、なるべく行きたくなかったんです。でも、そのときは「どうせすることもないし」と思って、朦朧とした感じで行ったんですけど、そこに出ていたのがナンバーガールだったんです。

もうライブを見て衝撃で、泣きそうになったんですよ。でも、当時のナンバーガールはすでに解散を発表していて、そのあとに久留米大学の学園祭に出るっていうので、それも見に行ったんです。そこからナンバーガールにどんどん心酔して、なんでこんなにカッコいいバンドが解散するんだ、これは俺がナンバーガールの代わりにならないといけないんじゃないかと真剣に思ったんですよ。

――極端ですね!

青柳:それでナンバーガールのバンドスコアを買って、高校の同級生からベースを借りて練習を始めたんです。それが21歳のときだったかな。

●青柳兄弟と木村兄弟でバンドを結成

――それまで音楽経験はあったんですか?

青柳:まったくないです。でも、実は弟が中学生からバンドをやってて、地元のテレビに出るくらい有名だったんですよ。LOW AGE KIDSという名前だったんですけど、青柳弟、木村弟、樋口弟の3人組で、全員僕の同級生の弟だったんです。それが高校卒業を機に樋口弟が抜けるということで、青柳弟と木村弟の2人になるんですけど、この先どうしようみたいなことをウチに来て2人で話していたんです。

それまで僕はLOW AGE KIDSと自分をまったく切り離して考えていたんですけど、2人から「どうせなら俺らと一緒にバンドやろう」と言われて。最初は「俺はお前らと一緒にできるレベルじゃない」と断っていたんですけど、なんか一緒に練習するようになったんですよ。

――とりあえずスタジオ入ろうぜみたいな。

青柳:まさにそんな感じです。それで練習を重ねているうちに、やっぱりドラムがほしいということになって、じゃあ木村兄を入れようと。木村兄はいまも999999999というバンドをやってて、もともとベースなんですけど、ウチの弟もベースからギターに転向したし、ドラムをやってほしいとお願いしたんです。

――ベースが3人いたんですね(笑)。

青柳:そうなんです。2兄弟でやることのほうが大事だったというか。それでthe monkiesというバンドを結成したんですけど、わりと人気が出たんですよ。外タレの前座の話が来たり、メジャーのレコード会社の人が見に来てくれたり。

本当にいいところまでいったんですけど、5年くらいすると「このまま続けてどうなるんだろう?」みたいな空気が漂い始めて、活動が停滞するんです。でも、地元ではそれなりに知られていたから、それぞれソロでライブに出るようになって。

そのときに僕は、21歳でベースを始めて、バンドをやってきたけど、結局言われたフレーズを弾いてただけだし、自分で何かを作れるような人間にはなっていない。このままではみんなが高校生でやっていたことを遅れて始めただけになっちゃうと思ったんですよね。だから、自分で何かを発信しないとダメだなと思って、「霊を知りすぎた男メタル」という名前で、心霊現象の歌をベースで弾き語りする活動を始めたんです。

――だいぶぶっ飛びましたね(笑)。

青柳:そうなんですよ。あとから考えたら、バリバリお笑いに振り切ってたなと思って(笑)。しかも福岡では意外とウケて、いろんなところから呼ばれるようになったんです。物珍しかったんでしょうね。

●役者を目指して上京したはずがお笑い芸人に

――バンドはどうなったんですか?

青柳:結局解散することになるんですけど、当時は「俺はバンドやってるから」みたいなことを言い訳にして、ろくにバイトも続かず、堕落した生活をしていたんですよ。近所のレンタルビデオ屋に「100円の日」があって、それが夜中の4時から始まるので、3時くらいから行って品定めして、4時になった瞬間に10本くらい借りるんです。それを3〜4日で全部見たりとかしてて。

そんなときに、いまの相方(樋口聖典)が東京に行って音楽の仕事をすると聞いて、このタイミングで東京に行かなかったら、二度と東京には行かないだろうなと思ったんです。でも、そんな生活をしていたから、東京に行って何をやるんだって考えたときに、映画が好きっていうことくらいしか思いつかなかったんですよ。それで映画に携わる仕事……役者かな?って。役者を目指して東京に行くことを決めたんです。

――ある意味、東京に行くために適当に理由をつけたというか。

青柳:完全にそうでしたね。それで東京に住んでいた同級生が、僕と一緒に住むために明大前に部屋を借りてくれて、26歳の1月11日に上京しました。その日付はいまでも覚えてますね。

――仕事はどうしたんですか?

青柳:映画の仕事をすると言って出てきたから、とりあえず渋谷のTOEIでモギリのバイトを始めるんです。結果的に僕が唯一やった映画の仕事でしたけど(笑)。

役者になると言って東京に来たから、オーディションとかにも行ったんですけど、まわりは180cmとかあるイケメンばかりなんですよ。6〜7人ばーっと並べられたときに、そんなイケメンでもない、163cmの小さいヤツがポツンと立って、「なんでここにいるんだろう?」ってなっちゃうんです。それに、みんなは自己PRで「あの映画のあのシーンをやります!」とかやるんですけど、僕は「サメに噛まれた人をやります!」って、一発ギャグっぽいことをやってて。

――ここでもお笑い(笑)。

青柳:もちろんツルツルに滑ってますし、自分でも「何してるんだろうな?」と思って。それで1年くらい何もないまま東京生活が終わろうとしていたんですけど、そんなときに地元の同級生2人が、よしもとに入ると言ってきたんです。もともと僕より先に上京していて、2年くらいバイトしてNSC(吉本総合芸能学院)に入る資金を貯めていたんですよね。

さっきも言った通り、僕らは学生時代からエピソードトークを磨いてきたんですけど、彼らはプロの門を叩く前に、地元の仲間で誰がいちばんおもしろいか決めたいと言うんです。それで僕が27歳の正月に、同級生8人が東京に集まって、グランプリが開催されたんですよ。

――グランプリって、そんなちゃんとした感じだったんですか?

青柳:会場こそそいつの家でしたけど、ガチでやったんです。まず、お題を出して、大喜利でひとりずつ答えて、自分以外のいちばんおもしろかったヤツに投票していく。次はくじで相方を決めて、3時間ネタづくりをしたあとに発表して、最後に自分のグループ以外に投票する。その結果、僕が優勝したんです。

そのときに「俺はこれからプロになろうとしているヤツらよりもおもしろいんだ」「じゃあ、プロになっていいな」と思って。それで僕もよしもとに行くことを決意するんです。

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