記録_9_11_sun_2022_1836_2055
<転校の一般性が筆舌し尽くせないことについて>
1836/// まだ環境に自分自身を分けることを理解しようとする子供の時期に転校という環境の変化が何度かあった私です。 / 環境的な動物、特に人間にとっては家族の不在や喪失ほどではないものの、やはり転校という出来事はそれなりに物事の感じ方に影響を及ぼします。 / 他人や集団に対する思考にも、自分自身の思考にも。/
突然の家族の不在や喪失は転校と比較してずっと衝撃が大きく、他人の同情を受けやすいものです。 / 大きな悲しみには、おおよその他人は同情します。 / 手を差し伸べる他者は多いでしょう。 / 家族の喪失自体全く羨ましくないし、そんなことを書いては失礼だとわかっているのですが、社会的な制度上の人、例えば民生委員の方であれ、少し離れた血のつながった人々であれ、はたまた仲の良いご近所であれ、手を差し伸べる他者がいくらかいるということを半ば自動的に知ることになるのです。 / 最初は手を差し伸べても、どこかの時点でその関係性が変わってしまったりすることはあるでしょうし、結局苦しむ部分が出てくることには変わりないと思います。 / 当人の過失でない限り、家族の喪失や不在は大地震のような天災と言っても過言ではないでしょう。 / 何よりも困難な出来事の一つでしょう。 /
話がわかりやすいことに越したことはないと、私は感じてしまうことがあります。 / 自分自身の立場がはっきりしていることは、とても羨ましいです。 /
転校は家族の喪失や不在と比較してたとえてみたところであっても、天災ではありません。 / かといって人災とも言えません。 / それでも世界の中でも比較的共通理解が行き届いた人生の中での出来事の一つでしょう。 / 転校生本人、そして転校生を受け入れる人々共々どうやって扱ったら良いか一度考える出来事はなかなか無いことです。 / 転校生は知らない環境の中でどう生きるか考えますし、受け入れる人々は転校生をどうやって自分たちの環境の中で生かすのか考えるのです。 /
家族の喪失や不在とは全く違う、ある意味、個人的には本当の意味での「普通」の難しさがあると感じます。 / 双方自意識がある時点での、お互いの立場づくり、とでも書けるかもしれません。 /
広く一般に通ずることを表現するときに「普通」という言葉を使います。 / 広く一般に通ずることを考えるときに、人間は初めて自分のいる集団の広さや、その集団を成り立たせている環境や人々の間での共通事項の一般性について考えるようになります。 / 転校生という立場は、多かれ少なかれ全く別種の集団の中にいたことがあるという点において「普通」がいかなるものか考えるには比較的有利です。 / 同時に、そういったある種の優越性は集団の中で疎まれることがあるけれど。逆も然りです。 /
転校生を迎え入れる集団の目線に立ってみます。
集団にも当然集団の数だけ特徴はあります。 / その集団としての意識の強さ故閉鎖的になる集団もあれば、逆に集団としての意識はあれども適度に希薄で、新たに人を迎え入れるにも寛容さがある集団もあるでしょう。 / 知らない集団から来た転校生には今までは成り立っていた集団自体を変える要素を持っていること、その事実にどんな第一印象を抱くか、ということは集団にとってある意味、集団の意識を現します。 / もちろん転校生自体の雰囲気などが左右するところでもあるけれど。 /
転校という出来事が生み出す状況は筆舌に尽くせません。 / 転校生という一人の存在があって、その一人を受け入れる集団がある、という起点以外の一般化は困難を極めます。 / その困難さにも関わらず普通に起こり得るというこの出来事を私は、自分自身の経験上強い関心を持って自らの中で反芻したり、他者の中に見つけようとしています。 / 転校の中にあった悲喜こもごもは、形を変えてその後の人生の中で起こり続けると思っています。 / 何せ、「普通」の出来事なのですから。 /// 2055
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