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記録_9_19_mon_2022_1544_1618

理解の立体性

1544 /// 生活の中の動きを口に出すことを始めています。 / 料理をするときには、「ほうれん草を切る」とか、「ひと煮立ちさせる」など。 / おおよその動きを口に出し、言葉にしています。 / この記録が書かれずとも続いているような感覚があり、比較的こころのぐらつきが少なく感じられます。 / 生活において、頭で何かを考えて行動する、という身体とこころの共同作業のようなものは普通に行われているものです。 / 転校の精神が強く育ってしまった私には、その普通すら果たして本当に普通なのかどうか、という疑問が生まれてしまいます。 / 一体私はどこまで客観性を身に着ければ納得するのか。 / 「トイレに行く」とわざわざ口に出さなくてもトイレには行けるのに、そこを口にしてみるようなことを日常にしているさまは滑稽そのものです。客観的に見れば。 / ただ、黙して考えるよりも頭の中が整理されやすいのは確かです。 / 思考が声という違う形になる、ということは何というか、理解が立体的になります。 / 頭の中だけで考えられる動きが一次元的だとしたら、その思考を声に出すことで二次元にしているような、そんな感覚です。 / 立体的になった思考を客観的に考えるとき、その思考はこうして文章に起こされます。 / その文章も声に出して読み返すことでその思考は再び形を変えながらも、やはり立体性を増し、変化に富み、客観的に見やすくなるのです。 /

自分自身が持っている価値観の大半は崩れ去ってもおかしくはないのが世の常です。 / 転校の最中、秋風の涼しさのようなはかなさをそんな世の常に対して感じ、学びました。 / 生きて死ぬ以外に確かなことはほとんどありません。 / 私を含めた全ての人間に当てはまることはそれだけです。 / 変化が宿命づけられている私であるならば、せめて自分自身の変化については可能な限り把握したい。 / 他者の変化に対して鋭敏かつ素直であれるように、自分自身の動きに対して最も鋭く客観的でありたい。 / 気づいたときには遅い、という状況には必ず他者も自分も苦しく、悲惨な選択を迫られるのですから。 /// 1618

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