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悩める自分を救えるのは自分だけ

認める、私はプライドが高い。

自分に自信がないわけではないけれど、圧倒的に自分には経験が足りてないという劣等感もある。同年代どころか、10歳20歳下の人よりも経験値が低いと思う。

あと、社会に対して不満があっても、改善のための行動を起こさない。そこも自分を蔑む点。
左翼で、地方の革命家であり、小さな集団のカリスマだった父親が、おそらく人生で5000万くらいお金を使い、何万時間も活動した結果、なにひとつ変わらなかったのを見てきた。
社会はいつだってよくはならない。だったら希望を持っても、行動しても無駄じゃん、と思っている。
だけど、自分の周囲から変えていこうとしている人たちがいて、そういうのを見ていると「やっぱり自分て足りてないなぁ」と自分にがっかりする。

結局のところ、プライドを守るため、私は何もしてないのだろう。
プライド、という言い訳。

行動して、自分の望む結果が出なかったらどうしよう。
やってはみたものの失敗したらどうしよう。
そんなことになったら、自分にがっかりしてしまう。

ちなみに現在、私は自分にがっかりしている。
最近ちょいと努力してライティングをしているが、結局のところ、大して書けてない。望むような記事を書くチャンスは回ってこないし、書きたい記事案をまとめられてもいない。かといって、たくさん書いてるかというとそういうわけでもなく、前よりはまだ書くスピードが早くなったが、それでもすごく遅い。大した文字数も書いてないのに、書けないと悩む。
そんな私と比べて…と、誰かがどんな記事を書いているのかも知らないのに、比較して卑屈になっている。
クリエイティブでもなければ職人でもない。
プロとは到底名乗れないレベル。

お金のために、生活のために書くことに疲れ、本当に書きたいものを練る時間がない、なんてことをほざく。
いやいや、本当にやりたいのであれば、時間は作るよね。なんてつまらないことは言わないけど。
優先順位の付け方を間違えてることには気づいてる。

ハリボテのプライドを本物のプライドにするには「やった」ことが必要。
「やった」という自信、満足感が肥料となり、プライドを育ててくれる。
実績という根拠に裏打ちされたプライドは、「やる」原動力、推進力となる。ハリボテだったときには「やらない」理由だったのに。

そうしてプライドはどんどん育って、気づいたら脊髄というか軸というか、自分が自分である確信のようなものになるように思う。たぶん。
というか、そうなって欲しい。個人的希望。

書けなくても書くしかない。
変えたいなら変えようとするしかない。

自分のことだもん。自分でなんとかしなきゃ。

あこがれる書き手の言葉を胸にがんばろう。



ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす