センシティブな議論
面倒くさいことが嫌いだ。ややこしいことが苦手。だけど、私の口から出る言葉、話は回り道したり、螺旋を描いたり、ちっともわかりやすくない。
率直な人、率直な物言いが好きだ。シンプルなものを好む。単純という意味でも、デコラティブでないという意味でもシンプルがいい。服もデザインも料理も。
手をかけたものがよくないということではない。複雑なものを複雑と表してくれれば、その心構えをして向き合える。裏があるのに率直なふりをするのは、もう絶対に無理。受け付けない。
私に裏がないかといえば、裏はある。裏というか、表に出してないもの、うちに秘めているものがある。そりゃ誰でもあるさね。
誰だって裏表なく、すべておっぱっぱではないという前提に立って話したり接したりする。だが、裏表があることをよしとしない人は、自分はおっぱっぱですよというふうに振る舞う。裏表があるのに。(おっぱっぱ:私周辺の福井弁では開けっぴろげの意)
そういう裏読みしなくてはならない人が好きじゃない。裏があるんですよ、そうですか。それでいいのに。
その行動や言動の裏に思惑が見える人もいれば、見せない人もいる。この見せない人はとにかくやっかい。見せないから思惑はない、そう思えたらどれほど楽なことか。
まったく見えないなら、私も気づかない。ほんの少し、針の先ほどの、髪の毛ほどの違和感があるのだ。その違和感の正体を探るのが、本当に嫌い。だが知らんぷりして放置しておいて、のちにえらいことになってしまう場合があるので、放っておけない。
違和感の正体がどこにあるのか、思惑がどこにあるのか、なぜ思惑を隠そうとするのか。記憶を丹念にさらっていく作業をしていると、あのときのことも、このときのこともすべてが疑わしく思えてくる。どこまでが表で、どこからが裏付きなのか。
私は自分のことを話さない。率直に、開けっぴろげに話しているようで、実は肝心な部分は口に出さない。書くことで多少表に出すこともあるが、それでも核心部分は秘密のままだ。
今まで誰にも話さなかったことを話せるほどに信頼できる人が、今は身近にいない。なんてことない話はできても、信用すらしていない人がほとんど。
昨日、現在唯一の友だちで信用している人に「信用している人はひとりふたりいるけれど、信頼できる人が誰もいない」と言ったら「信頼できるのは自分だけだから」と返された。「信頼するのも、勝手なこっち側の思い込みだし」とも。
でもね、私は過去に信頼した人に「私は人生で出会った中で一番信頼している」と告げ、公言もしていた。長時間、私の議論の相手をしてくれたその人は、たぶん私の言う「信頼」の意味をわかっていたはず。だと信じたい。
自分のことはともかく、誰かについての論評や、人の思惑とそう思うに至るまで、観察から見えてきた人と人との関係性について誰かと話したい。「書くことで思考し、書きながら思考が形となっていく」と書いたけれど、誰かと議論することでまだ見えてなかったものに気づくことがある。だから話したい。ひとりの思考では行き詰まるのだ。
だがセンシティブな内容ゆえ、話す相手を選ぶ。そう、信頼できる人でなくては話せない。
この約1年、誰にも話さずにきた。もうそろそろ限界。誰かとセンシティブな議論をしたい。できる人が欲しい。
率直に語る、公平な目を持つ、信頼できる人。かつ、人間という生き物について興味関心があり、日々観察している人。かつ、議論が好きな人。
どこかにそんな人、いませんか?
ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす