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言葉を収集する

 おちょくられがちだ。おちょくる、は全国で通じるだろうか。からかわれるというより、弄ばれておもちゃにされるというのが個人的には近いかな。それは優しさでもあり、いじわるでもあり、愛でもあり、退屈しのぎでもあり。相手と状況、自分の心持ちによって受け入れられるときもあれば、苦しくなるときもある。
 今の私しか知らない人たちにとって、私はとてもおっとりしていて、怖くないのだと思う。自分でも丸くなった自覚がある。
 土曜の夜、一緒に飲んだ友だちに「よくあの人と話できるなぁ」と言われた。友だちはその人を軽蔑していて、口をきくなんてとんでもないと思っている。でも私にとっては、その人はなんてことない普通の人。そこいらにいる、誰かと同じ人でしかない。
 昔は他人にとても厳しかった。ちょっとでも気に入らないところがあれば、完全シャットアウト。テニス界にいたときも、狭い世界だから好きじゃない人がいても表面上はうまく付き合う人が多い中、私はきらいな人には知らん顔であいさつすらしなかった。
 でもテニス界を去り、血縁者との縁を切り、実家を売り払い、行方をくらました後、今の人間関係に身を置くようになって変わったと思う。

 昔から好ききらいに関係なく、人のいいところを見つけるのが得意だった。いいところがあるからといって好きになるわけでもない。ただ見つけるだけ。それは今も変わらない。
 たぶん昔と違うのは、人間に対して「all or nothing」でなくなったこと。
 曖昧さが苦手だった。誰とでもうまくやる、どっちつかずがきらいだった。付き合うか、無視するか。極端な二択で人を選別していた。
 今は友だちからどうでもいい人まで、グラデーションになっている。友だち、知り合い、顔見知り、きらい、どうでもいい。きらいな人とは口をきかない。あいさつもしない。きらいよりも下に、どうでもいい人がいる。こちらはあいさつはするけれど、一切興味がない。何か話したとしても、何ひとつ覚えない。
 そしてきらいな基準も低くなったと思う。たとえば70点以下は無視していたのが、今は40点くらいでもあいさつはする。まあ、どうでもいい人の幅が広がったとも言える。

 きらいな人以外とは世間話程度はする。飽きてしまうけれど、話を聞き流し、適当に相づちを打つくらいはできるようになった。そんなふうに7割くらいの人と口をきくから、誰とでも話すおっとりさんに見えるのだろう。(コミュ障と呼ぶ人もいるが)
 何を言っても怒らない人だと思うから、人は私をおちょくるのだと思う。おちょくっても怒らない。地団駄を踏んでふくれっ面になる。言いくるめられるくらいの反論しかしない。正論を素直に受け入れる。
 自分に向けた言葉を発する人を知りたいという欲求がある。最大級の優先事項。人を知りたい。特に私に言葉をかける人のことは知りたくてたまらない。どういう人なのか。何を思っているのか。どんな考えなのか。今の気持ちは。知りたいから、言葉を待つ。言葉をできるだけ受け取りたいから、どんなこともわくわくして待てる。
 その言葉の中にこれまで知り得なかったものが含まれていれば、自分の中にしまい込む。取り入れるかどうかは、二の次。私は受け取った言葉を解釈するのに時間がかかるから、血肉なるのに1か月、半年と時間がかかる。それでも引っかかった言葉はどこまでも残っていて、「あっ」という瞬間が訪れる。それまでできるだけのものをしまい込んでおく。

 それでも落ち込んでいるとき、喪失感でいっぱいのときは、おちょくられると「自分って本当にダメな奴」となる。そうなってしまうと、かけられた言葉は上滑りし、どこかへ飛んでいってしまう。もったいないことだけれども。
 みなさんに言いたいのは、私が調子よさそうにしてたら愛すべきポンコツとしておちょくってOK。どれだけでもおちょくってください。つまりはたくさん言葉を投げてください。
 みなさんの言葉を収集しております。集めた言葉はいつか私のものとなるかもしれないし、ならないかもしれない。でもあなたを知る手がかりになるので、やっぱり言葉が欲しいです。
 ご協力、よろしくお願いします。

 

 

ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす