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タネから苗へ

人生経験が少なく、人付き合いも少なく、ほとんど脳内でしか生きてない私に誰かに届く文章が書けるのだろうか。
書いているけど届く気がしない。

文章って文字でしかないけれど、そこには書き手が透けて見える。
いくら取り繕って書いてみても、気づく人は気づく。
自分にとって真実を書いたとしても、人に見せる前提の文章は大抵あざとくて、本当に素の文章となるものはめったにない。あざとい前提で、それでもあざとさを隠さず、開き直ったようなものを書けたらいいなと思う。

iPhoneSE のメモ帳にたくさん残っていた話のタネをnote の下書きに移した。バッテリーがイカれて、いつデータがなくなってもおかしくなかったから。
バッテリーを交換したら、奇跡のように復活して、あと2年は使えると思えるくらい元気になった。

note を書くとき、ネタがないなーと思うと、その話のタネを見てみる。
タネなので中途半端な書き方がされているのだが、自分で書いたので「ああ、こういうこと考えてたのか」とすぐ理解できる。たぶん他人が見ても「?」って感じだろうけど。

思考の端折り書きに混じって、小説の欠片がいくつもある。

小説というか、脚本というか、物語を書きたいと子どもの頃から思ってきた。
ノンフィクションが大好きだし、欠片には紐づく事実があって、取材して記事にすることもできる。はず。たぶん。
でも、それをフィクションで表現したい。
なぜなら頭の中だけでどうにかできると思っているから。

バカだなーとつくづく思う。
頭の中でこねくり回しただけの物語なんてハリボテじゃん。中身のない、空虚な話を誰が読む?
物語は誰かに読まれてはじめて、存在価値が生まれる。ひとりでいいから読者がいて、物語は物語として成立する。

子どもの頃から話のタネを記したノートが数十冊ある。引っ越しを繰り返しながらも捨てられなかった。いつか書けるときが来るのではと、どうしてもあきらめきれずにとってある。
いつか、は来るのだろうか。

あざといかもしれないが、少なくともバーチャルな仕事はそこそこに、リアルな仕事をしたい。
目の前にある存在を取材して書く。
書くことから離れてもいい。目の前にいる人に渡す。売る。もらう。
脳内やパソコンの中だけで完結するような生き方はしたくない。(すごい、いつの間にか「生き方」にまで話が拡大している!)

空が青いことや、風が心地いいこと、内臓に響く波音、西日のまぶしさ。
ネコの体温、人間の声、会話、おいしいごはん。
五感を使って毎日暮らしたら、少しはマシな文章が書けるような気がする。楽しいことも、苦しいことも、嫌な思いもして、目の前の物事に腹を立てるくらい感情をたかぶらせてたら、自分でも腑に落ちるような文章となるのではないか。

なんてことを考えるけれど、たぶん本当に必要なのは書くこと。
言い訳せずに書くことしかないのだと思う。
届きますようにと願いながら、書かなくては。話のタネを誰かに読んでもらえるように、空虚な文章であったとしても形にしなくては。

あら、なんかすごい決意表明のようになってしまった。
ただ「話のタネがたくさんあるんですよ、物語を書きたいんですよ、でも書けないんですよ」という文章を書きたかっただけなのに。
「書けないんですよ」という結論が「書かなくては、形にしなくては」に変わってしまった。

あらら、自分で自分の背中を押してしまった…



ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす