高い低いは問題じゃない
自己肯定感を上げようとは思わない。
自己肯定感が高いからじゃない。
自己肯定感が高かろうが、低かろうが、そんなの大したことじゃないと思うから。
自尊感が低い人たちは、自身を過大評価し、素晴らしい人間だという幻想を持っている。この幻想と現実のギャップが大きいほど、悩みも大きくなる。(上記記事より)
私は自分に自信がある。
でも自己肯定感は低い。
自分の期待に応えられないことがその原因。
つまり、
自尊感が低い人たちは、自身を過大評価し、素晴らしい人間だという幻想を持っている。この幻想と現実のギャップが大きいほど、悩みも大きくなる。
すばらしい人間だなんて思ってないけど。
怠惰で自分に甘々で世間知らずで好き嫌いが激しくてまあまあ大体テキトーで根性なし。
やればできるけど、そもそもやらない。
そう、やればできるのにやらないことが、一番自分自身の期待を裏切る原因となっているとわかっている。
幻想と現実のギャップというより、ギャップにも至らない自分を恥じている。
「自己肯定感を上げましょう」って言う人たちは、上げてどうするんだろうか。
自己肯定感を上げるのが目的としか思えない本、人が多い。
でも、自己肯定感を上げれば満足するの? 自己肯定感を上げれば解決するの?
私の場合、自己肯定感を上げてやらない自分を認めておしまい、ってなったら、本当のおしまいになっちゃう。
たとえば、自己肯定感を上げたとする。
でも自己肯定感はやらない原因じゃないし、やらない原因を解消しなければ自分の期待を裏切り続けるわけで、つまりは自己肯定感は低いまま。
あら、自己肯定感を上げたはずなのに、上がってないわ。
パラドックス。
必要なのは、自己肯定感を上げて「なにをするのか」「どうなりたいのか」ってこと。
自己肯定感を上げることは手段であって目的ではない。
なにをするにも一歩踏み出せない、ありたい自分に近づきたい、そのために自己肯定感を上げるのであれば意味はある。自己肯定感を上げた先がぼんやりとでも見えていればいい。
「いやいや、自己肯定感が低くて自分になにができるかなんて考えられない」
だったら、考えられるようになればいい。
自分のやりたいことを見つける、ありたい姿をイメージできるようになる。そのために、まず自己肯定感を上げよう、ならまだわかる。
私の場合、怠惰で自分に甘々で世間知らずで好き嫌いが激しくてまあまあ大体テキトーで根性なしでやればできるけどそもそもやらない自分を受け入れている。
自分が大したことないダメ人間ということは自覚している。
だからといって、自己肯定感は上がらない。
そこが、この記事(というか、ハ・ワン著「あやうく一生懸命生きるところだった」)との違い。
ま、自己肯定感を上げようとは思ってないからいいんだけど。
自己肯定感について、日々ずっと考えているわけじゃないし。自分はダメなやつ、ダメなやつ、ダメなやつ…と思い続けているわけじゃないし。
自己肯定感が低いことを笑い飛ばすし。
自己流で畑を耕し、お店の人が「まだ夏野菜植えるには早い」と言うのに苗を植え、それが大きくなってきている。
Twitterで見た雑草を摘んで料理したらおいしかった。
シェアメイトから「あんまり自分のこと話すことないけど、アキさんは聞き上手だから話せる」と言われた。
窓際でネコたちが気持ちよさそうにお昼寝している。
選んだ本がおもしろい。
尊敬する友人と話が止まらない。
大好きな友人とおいしいものを買いに行く。
苦手だった家主との関係が改善した(気がする)。
そんな日常のちょっとした出来事がうれしい。
ただそれだけで幸せ。
その幸せをもっとずっと感じていたいから、ダメダメな自分を少しだけでも抜け出したい。
だからもがかなくては、と思っている。だけ。ではなく。
嫌で仕方ないライティングもちょっとしてる。どうにも苦手だけどクラウドソーシングの提案もしている。なかなか案件とれないけど。
自分の望む自分の姿にはほど遠い。
でも、やればできるの「やれば」を少しでもやっているから、できているかは別で満足感はある。ちょっとだけど。
それで自己肯定感が上がったのか、わからない。
つか、どうでもいい。
私の目的は、やろうとしない自分から抜け出すこと。なんでもいいからやること。
さて、次はバイトを見つけよう。次の「やれば」欲を満たしたい。
ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす