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思考航路が私をつくる

敬愛する木津くんのブログ、読むたびに考えさせられる。
実のところ、私は木津くんに相当あこがれていて、木津くんになりたいとさえ思っている。ちょっと気持ち悪い?
そのくらい、木津くんの言葉は私をざわつかせるし、もやっとしているものに形を与えてくれるし、物事の輪郭を浮かび上がらせてくれるのだ。

昨日公開されたのは、先週20~26日の備忘録。

・すらすら言葉が出なくなった。
・状況が変わったことにまだ慣れていないから
・内省と言語化が足りていないから

というところから、どんどん話は進んでいく。

ブログを書くということは、いつか誰かに話すことを、先回りして考えておくということ

note をしょっちゅう書いていたときは、いつもなにか考えていた。
書くから考えていたのか、考えいたから書けたのか。どっちも真なり。
考えたことを書く。書いた後、誰かに話す。話したことでさらに考え、それをまた書く。同じ方向だけでなく、別な方向にも考えが飛んでいく。どんどん考える範囲が広がっていく。それをまた書く。
その繰り返し。

飛べない豚はただの豚、考えない人間はただの葦。抜け殻だ。
そして、私は考えることが好き。考えてばかりいるのが私。
つまり考えないなら、私は私ではない。

考えなくなったのは、話さなくなったから。
話せる人がおらず、言葉にすることがなくなった。
考えたことを言葉にしないから、もやはもやのまま。部屋の隅にたまったわたぼこりのように、輪郭を持たない思考が脳の隅にいくつも転がっている。

話すことで思考が明確になり、議論することでエッジが立つ。相手の言葉で気づくことも、論を展開する中で自ら気づくこともあった。
その考えがどこから派生し、どの経験に基づくのかをたどる機会でもあった。

そういう思考航路は大切で、私の礎となっている。
航路をさかのぼって自らを知り、航路の先を思うことで自らの望みを知る。
ああ、先を描けなくなったのはそのせいだったのか。
今さらながらに気づいた。

そうか、書けなくなったのは考えなくなったから。
考えなくなったのは話さなくなったから。
不安に苛まれているのも、生きてるのに死んだように感じるのも、すべては考えなくなったからなのか。

ひとは自分の中で考えたことがあることしか話すことができない(鳥井 弘文 隠居系男子「ブログはもうオワコンなのか?」より)

あれ、話す相手もいないのに考えることはできるのかな。
いや、また話す相手に出会うこともあるかもしれないし。そのときのために、その誰かに話すことを先回りして考えよう。
ということにしておこう。

そして、考えるために書こう。
書くために考え、考えるために書く。私が私であるために。

はて、木津くんのブログとは関係ないところへ着地してしまった。
でも考えるとは、こういうこと。のはず。たぶん。


ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす