愛が湧き出す泉

 どうしてその瞬間を選ぶことはできないのだろうか。家の中でパソコンに向かってるときとか、お布団の中で考え事してるときとか、その瞬間がやって来ても問題ないときにやって来てくれればいいのに。
 よりによって運転中はないよ。バイトに向かう道すがら、涙がこぼれるなんて困るよ。どんな気持ちでバイトすればいいのさ。

 今朝、運転しながらある人のことを考えていた。昨夜その人の名前をなぜか何度も口にする機会があり、さらに大好きな家主の出発日がほぼ決まったとの連絡が回り、時間が有限であるなら私はもっとその人のことを知りたいと思った。
 その人は、ぼろぼろになった私の泣き言を聞き、ときに厳しい意見を言い、ときになぐさめ、ずっと隣りにいてくれた。また別なときに助けがほしくて、あからさまではないSOSを出したら気づいて来てくれた。私だけでなく誰にでも優しい、大きな愛を持つ人。
 その人がみんなを包むくらい大きくて温かい愛情を持っているのは、きっとご両親や周囲の人たちに愛されて育ったからだと思っていた。いや、それはそうなのかもしれないし、違うという根拠はまったくない。
 でも、彼があれほど大きな愛と優しさを持っているのは、本当に愛されて育ったからなんだろうか。
 そんな疑問が芽生えたとき、車が道路にあいた穴の上を通過し、タイヤが弾んだ。

 もしかしたら、その人には大きな穴があるんじゃないか。私にもあるけれど、それとは比較にならないくらい大きな大きな穴があって、そこからこんこんと愛が湧き出ているのではないか。
 もうひとり、昨夜、同じように何度も名前を口にした、大好きだけど負けたくない人の顔が浮かんだ。その人も大きな愛を抱えている。私には理解できない寛容さで、やってくる人に応じて、求めるものを渡していく。言葉と議論を求める私には、何より大切な時間を使って長時間チャットの相手をしてくれる。厳しさばかりに目が行くけれど、愛と優しさでできている人。
 ふたりともとてつもない愛を持っている。それに見合う大きな大きな、深い深い穴を持っていて、そこから愛が泉のように湧いているのではないか。

 ああ、私はなんてちっぽけな人間なんだろう!
 私はふたりほどの愛も優しさも持っていない。つまり私の穴なんて、ふたりに比べたら針の穴にすぎない。なのに、甘えて泣き言を言ったり、甘えて話に付き合わせたり。
 ふたりはどれほどの思いをして、大きな穴と付き合ってきたんだろう。ふたりだけじゃない。家主もほかの人も、私なんかよりずっと大きな愛を持っている人たちは、私なんかよりずっと大きな穴を持っているのかもしれない。
 なぜ私は自分の苦しさだけに目を向けて、人の苦しさに気づけないのか。私はちっとも特別かわいそうでも、特別大変でもないのに。自分ばかりがひどいことをされていると思いこむ、なんて矮小な人間!

 そう思ったら、涙が出てきた。不甲斐ない自分への情けなさ。こんな私に優しくしてくれる人たち。その人たちが持っている穴。それに気づけない私。
 誰もがきっと穴を持っている。大なり小なり穴があって、苦しいけれど付き合いながら生きている。そう思ったら、誰のことも愛おしくなってきた。
「みんな違くて、みんな良い」
 私の大好きな人の口ぐせ。いつだって負けたくないとその人の問いに解を出そうとしている。でも解は、もっとずっと前にさり気なく提示されていて、私はずっと後になって解を見つけ、解がそこに差し出されていたことに気づく。
 今日もまた、前から聞いていた(書かれていた)大好きな人の言葉の意味を知った。悔しいけれど気づけてよかった。

 実際、大きな愛を持つふたりが大きな穴を持っているのかはわからない。持っているという事実ではなく、持っているとしたら気づけるようになりたいということ。悲劇のヒロインを装うのではなく、相手に対して配慮できる人間でありたい。
 ふたりだけでなく、大勢から渡された愛や優しさをいつか相手に返したい。時間は有限、間に合うかな。間に合わせよう。

  

  

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