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答えの書いてある本はいらない

 今日は読書の日。(Twitter で「読者」と誤字ってしまった…)
 昨日は読みさしだった「おとなの背中」をカフェのはしごの間に読み切ったのだが、今日は本を読むことが最優先。カフェに行かず、極力パソコンもスマホも触らず、家で本を読む。
 家にいると、どうしてもパソコンを立ち上げてあっちふらふら、こっちふらふらしがち。パソコンが目の前にあるのに本を読むなんて、ここ最近、できなかったこと。

 ここ最近、仕事(ライティング)で全然集中が続かず。15分書く、1時間ネットぶらぶら、10分書く、30分図書館内をぶらぶら。集中力は体力でもあるから、ずっと座りっぱなしで筋力体力が落ちたのかな。ってことにしておく。原因は別だけど。
 原因はわかっているけれど、それだけなのか自信はなく。昨日も読みながら時折、目がうろっと文章中をさまようことがあったので、集中が落ちてる時期なのかもと思いつつ、本を開く。
 今日は、鷲田清一著「〈ひと〉の現象学」。「おとなの背中」同様、年末に借りてきたけれど、読めずにいたものを再度借りてきた。今回こそは読んで返却したい。

 「はじめに」を読んだところで、あっとなった。

あるものを見ると、それとは逆のものを同時にその背後に見てしまうという癖だ。幸福を見たときその裏に不幸を透かし見てしまう……。そう、「禍福は糾える縄のごとし」。これはかなり幼いときに身につけたものらしい。(鷲田清一「〈ひと〉の現象学」より)

 そう、私も幸せだったり、楽しかったりするときほど、さびしさや悲しさを感じてしまう。楽しいを楽しいまま、幸せを幸せなまま感じ取りたいのに、すっと冷たい空気が背筋をなでる。自分だけじゃなく、人が楽しそうにしていても、本当に楽しいだろうか、なにかを覆い隠すために楽しんでるだけじゃないだろうか、などと考えてしまう。
 いつからそんなふうに思うようになったのか、記憶にない。けれど、子どもの頃からずっと、幸せは去っていくものだとは思っていた。ずっとそこにあるものではなく、視線を外した間に去っていき、戻したときには空虚になっている。それが幸せ。
 一体、子どもの私はなにを見たんだろうか。

 「〈ひと〉の現象学」第一章「顔」読み終え、ジャコメッティになりたいと思った。
 ジャコメッティは、細い彫刻をつくる人。前職の新聞社で展覧会紹介記事を書いていたとき、一度か二度、取り上げたことがある。私の中にある広く浅い知識にも、細い人体の彫刻以外の情報はなかった。
 だが、人物画も描いていた。人の顔を描いて、描いて、描いて、描けば描くほど顔が消えていく。写真とは異なる表現。いわゆる「目の前のあるがまま」ではなく、目に見えているものを消していくことで「あるがまま」を描こうとしているようだ。(※「〈ひと〉の現象学」を読んだ私の解釈による)

「人々は、まさに他人が見てしまったものに基づいてものを見ているというのはほんとうだね」(同上)

 ジャコメッティの言葉。
 下手な私の解釈をこれ以上書くことはやめよう。詳しくは同著、もしくは同著内で引用されている「ジャコメッティの肖像」「ジャコメッティ」などをどうぞ。
 画家は、みなこうなのだろうか。こうだから、画家になったのだろうか。それとも対象を見る訓練によって、こんなふうになるのだろうか。
 恥ずかしながら、私の人間観察や人間分析など、到底及ばない境地に鷲田清一もジャコメッティもいる。そりゃそうなのだが、これほど一歩目からひっくり返されるとは。
 これまで経験にもとづく心理学寄りの観察であり、分析だった。それほど間違ってはなかったと思うが、哲学や描くことからの観察、分析、思考の方がより真理に近い気がする。
 そして私が目指しているのは、実生活で役に立つ観察や分析ではなく、もっと役に立たないもの。はっきりとしない、ぼんやりとしたもの。観念とでもいうもの。

 ビジネス書や自己啓発本が悪いとは思わない。でも、本に記された人の答えを自分のものとするより、考えるヒントになる本を読んで、自分の内にある答えを引き出す方がいいと、私は思う。
 人の答えは、あくまでその人にとっての答えでしかない。私の答えは私のもの。ほかの人にとっては答えになってなくても、私には答えとなっているものこそ必要なものだろう。
 私にとっては、哲学であり、鷲田清一であり、ジャコメッティが答えを見つけるヒントになる。

 「〈ひと〉の現象学」は半分まできた。第一章を超えるものにはまだ出会っていない。
 でも、第一章だけで十分、読んでよかった。この先、第一章は何度も何度も読み返すだろう。自分の人間観察、人間分析を再構築するためにも読み返したい。

  

  

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