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アインシュタインの相対性理論のマネで相対性「幸福論」

ってどの辺が相対なんだろうかとサッパリ知らなかったのですが

どうやら、例えば観測者の前を車が60㎞で通過しました
それは観測者からしても運転手からしても60㎞なのですが

それを人工衛星から観測した場合、60㎞に見えるでしょうか?

見えないですよね、人口衛星は地球の周りを時速約3万㎞で周回していますので、富士山ですらあっという間に目の前を通り過ぎて行くように見えます。

例えば「水平」はお風呂やプールくらいの規模では「平」に見えますけど人工衛星から見ると地球は丸いのでカーブに見えるように、個の「狭い視点」か「広い視点」かで違うという感じ。

つまり速度は相対した当事者同士を基準にした時の話だよね~という感じらしい、へ~。(ザックリとした導入では)

(ちなみに、太陽系も銀河の中を周り、銀河も大銀河の中を回っているので宇宙には起点にしようにも止まっている箇所が有るのか無いのか分からない)

という理論を26歳の時に数式とか方程式で証明したらしい、もはや謎。

とい
うわけで私もマネして「相対性幸福論」を考えてみましたw

もちろん「幸せかどうかは自分の解釈次第」ですし、不幸な方と比べれば(相対すれば)幸せですし「生きてるだけで丸儲け」に繋がっていくわけですが、補足のような感じとして

例えば一般的には
A:不幸→不安→安心→満足→優越感→幸福↔パラダイス
という風な順序(ピラミッド型)で考える事が多いと思うのですが

    ■幸福、パラダイス
   ■■⇑優越感
  ■■■⇑満足
 ■■■■⇑安心
■■■■■⇑不安不幸

しかしそうではなく実際は
B:不幸→不安→安心→【幸福】→満足→優越感→パラダイス
というシーソー型なんじゃないかなと考えます。

不幸 安心 幸福 満足 優越感
       ▲                   

        優越感(パラダイス)      
      満足
    幸福
  安心  ▲
不幸

(▲はシーソーの軸)

つまりAの順序だと思って左下から幸福やパラダイスを目指して右へ右へと(上へ上へのつもりで)幸福を目指しますが実際は右へ行けば行くほどパラダイスのはずなのにシーソーは下がるので

幸福が「上に見える」(シーソー型なので右へ行けば行くほど下がる)

不幸
  安心
    幸福
     ▲ 満足
        優越感

不幸から幸福に向けて進んだつもりが、幸福を気づかず通り過ぎて優越感まで行ってしまって、いつまでたっても幸福には辿り着いた手ごたえが無い

という事が起きているんじゃないかなと。
なのでそう考えると「結局は普通が一番」「足るを知る」「何でもないような事が~」と言われるのもうなづけますし、満足くらいで止めておけばいいのに豪つくばって更に右へ行こうとする人が卑しく見えるのも納得。

であれば、どうして「右へ右へ行った方が良い」という誤解が生まれるか?
それは幸福が丁度いい薄味でパンチ(刺激)が弱いから通り過ぎちゃうw

そりゃ誰だって欲もあればお金持ちになりたいですし、満たされた環境を得たいし健康でありたいですもんね、それはそれで悪い事でも間違いでもないのですが、ただ「お金持ち=幸福」とは限らない

つまり「幸福=満足=優越感=お金持ち」ではなく

不幸<安心<幸福>満足>優越感
       ▲
 

というのと
「そもそも幸福がどんな感じなのか知らない」
なので自己満足の満足度を高める事が幸福だと思ってる
(自己満足はどこまで高めても自己満足)

とか
やっぱ欲もありますし競争心が湧いてしまうとかいろいろありますもんね

あと国的には、全員が全員が「一汁一菜で食事にありつけるだけで十分」と
言い出したら税収が減って1億2千万人を抱える国が運営出来ないので
国としては「もっと向上心と夢と趣味を持たせて消費を刺激してGDPをあげよう!」っていうイメージを持ってもらわないと困る、というのもあるんでしょうけども

そうであったとしても、あっちの事情とこっちの事情を引っ付けて
「世の中はAの序列であり、右へ右へ辿り着いた方が偉い」
というイメージを植え付けても、結局はシーソーは下がっちゃう。

幸福感とは「広い視点」で回りや悲惨な国と比べれば十分幸せに考えられたり「狭い視点」で身近な周りと比べると足りない気がするように「相対的な感覚」がある。また右側を目指した方が良いような気がするのに何故か幸福に辿り着かないのはシーソー型だから。

故にそのシーソーに振り回されるより「他者と比べてどうこう」より更に狭い「個人的な尺度」を持って、平均に至らなくても「納得感を感じる」というのも一つの手である、つまり様々な視野角を持つと見えてくるものが変わる、という感じでシーソー型で相対で感じ方が変わる、

と考えるのが私的「相対性幸福論」

この理屈からいうと広く視点で「平和」とはシーソーのバランスの和が平になった時という事になりますので「愛と笑顔あふれるハッピーハッピー」が悪い訳じゃないですけどそれが「綺麗ごとの偽善」に聞こえるのは、理想として目指しても「ハッピーにはなっても平和にはならない」という事を誰しもが本能のどこかで薄々は勘づいているから(まぁ実際はそんな簡単じゃないでしょうけど、理屈の話)

もしくは「愛と笑顔あふれるハッピーハッピー」を至福の頂点だと考えがちですが、実のところは「お金より愛を得る方が難しい」と考える人は結構多いので、世間の多くの人がそれこそが頂点だと序列して考えてしまうと、実際は必ず劣等感が爆発して池田小学校事件や秋葉原通り魔事件などのような得られない側の逆恨みが心が倍増して事件へと至る確率が上がる(様な気がする)つまり「お金を得るより愛を得る方が難しい」と考える人の事を無視した理想になってる。

地球や月、太陽を周る地球の軌道は真円ではなく「楕円」で、それぞれが個々に楕円である事で何億年もバランスを取っているのが宇宙の摂理、しかし人はカッコつけなので、落ち度のない完璧な真ん丸(愛と笑顔あふれるハッピーハッピー)を理想において目指す、そういう誤解ににてますね。

という訳で、私的「相対性幸福論」としては「幸福は薄味である」という事で。

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