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死について考える【75日目】

死について70以上も考えてると、もう死について考えなくてもいいかなと感じてくる。つまり、生きることしか考えられない。今生きることで精一杯です。

それでも、死がやってくるのはわかる。死があるから生もある。そして、死が迫ってきているからこそ、今何かやるべきことを、やりたいことを、やらなければならないのだ。そのやることをやっていない今、それでも、死について考えなくていい心持ちにはなっている。なぜか。生きるのに必死なのだろう。何も目標はないけれど、今目の前のことに一生懸命取り組むべきというのは素直に感じる。

これはポジティブになってきたということなのだろうか。主観ではやはりわからないものだ。他者と会い、また、旧友と会った時にこそわかるのかもしれない。変わったなと言われればそれが勝ちだ。悪い方に変わってしまっては意味はないが、良い方に変わっていたいものだ。

そうやって、結局、他人の目を、他人と比較してしまう自分がいるが、それでいいのかもしれない。他人と比較するからこそ、自分という個が存在する。世界に一人しかいなければ自分は何者であるかわからないのだから。

このあたりは前にも書いたことがあるのである程度省略させていただきたい。

そういえば、思い出したが、お金で幸福を得られるのかみたいな記事にこう書いてあったことを。

人生100年暇つぶし

たしかに、そう言われれば、そこに尽きるのであろう。壮大な暇つぶしだ。お金があれば、そうかもしれない。お金がない人はそれだけで苦労する。だから、人によっては、生への執着になるわけだが。その執着がなく、ある程度の仕事があり、ある程度の稼ぎがある場合、そこから先は暇つぶしのほかない。

どこかの社長だって、仕事が好きでやっていたって、仕事が趣味の延長線上であっても、どこかに何か欲求があって、それを消化しているのだ。誰かのために製品を開発し、承認欲求を得る。誰かとの市場争いに勝って、優越感に浸る。どれもそういう欲求がある。やりたいことというのは結局はその欲求なのだろう。欲望に忠実であれば、あるほど、やりたいことができるのかもしれない。やりたいことがわかるのかもしれない。

ただ、そのやりたいことは無限に広がるものの一つだ。やりたいことという分類がされた上でも、範囲は広い。承認欲求を例にすると、市場に自分が作った商品を送り出してフィードバックを見るのもそうだが、単純にSNSでつぶやいていいねをもらうのも同じなのだ。そうやってやりたいことというのは意外と選択肢は多く、どれがいいとかどれが悪いとかまであって、でもそれは主観で決めるもので。その選択肢は知識を元にしか展開できず、知識がある人ほど、良い選択肢を選ぶ。それこそ、社長になって、商品を作って、となるわけだ。そこまでの知識がない人はSNSでいいねをもらうにまでしか到達しない。

今、自分が何を欲しているのかを考えることが、そうやって、今の自分がやるべきことへつながるかもしれない。やりたいことが見つかるかもしれない。

だからこそ、欲望を心の奥底から出すのだ。

10分過ぎたので今日はここまで。

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