死について考える【66日目】

死にたいなと考えることはある。ファッションメンヘラというやつか。

死にたいと思っていても死ぬことはできない。そもそもなぜ死にたいと思うかと。暇だったりする。やりたいことはたくさんあるのだけれど、暇なのだ。矛盾しているようでこれはきっと心のわだかまり的なやつだ。

死にたいというよりは、何もしなくてもいい状態を作りたいが正しいのだろう。責任に追われず、時間に追われず、日常に追われない。そうやって、生きることでなにかに追われているこの状況が何よりダメなのだろう。状況を変えようともがいてみるが、そのもがき方はあっているのか、もがきが少ないのではないだろうか、そもそももがいても仕方ないのではないだろうか。むしろ、もがかないで、何もしないことのほうが利益を生む可能性だってある。

いや、ないか。何もしなかったことは何度かあるからわかる。何もしないと本当に何も起きないから。だからこそ、もがく。もがくしかない。

もがくのではなく、手を認識し、足を認識し、まずは床に手をつき、足をつき、現状を把握するほうが重要かもしれない。

いや、広く見回し、周りの身辺を整理し、自分の手足を認識し、何もかもやってきた。でも何も起きない。まだ立っていないからか?

では、そこから立てばいい。足に力を込め、手で勢いをつけて。それはまだやっていない気がする。なぜやっていないのか。足に力が入らない。手に力が入らない。踏ん張りが効かない。まるで赤ん坊のようにハイハイしかできない。産まれたての子ヤギのように、いや、それ以下だ。何もできていないのだから。なぜ力が入らないのかわからない。気力で何とかできるものなのだろうか。気合が足りないのか。この時代に気合だのなんだの、変な話ではあるが、ある意味では理にかなっているのかもしれない。

でも、そんなモチベーションに頼って、何もせずに立てるようにならないで、そんな人間で良いのかと。そういう完璧は目指さないほうが良いのか。やはり最初はやる気でも何でもいいから頼るべきなのか。矛盾の狭間で頭を悩ませる。難しく、霧の中を這いつくばっているようだ。これではただただもがき苦しんでいるだけなのだ。

この苦しみから抜けるために、死にたいという言葉を選ぶ。何とも合理的なことだ。

世界で独りぼっちになって、生きる希望はあるのだろうかと。誰かが生きているという望みを持つしかなさそうだが。

そういう気持ちに近い。何か希望の光さえあれば、霧の中からでも頑張るものだ。希望の光は何だろうか。それはきっかけなのだろうか。

きっかけがなければ、動かない。確かにそういうものか。昔から私はそういう人間なのだろう。しかし、きっかけはどうやって訪れるのだろうか。それはなにかに接触する必要がある。それは何でもいい。でも、それは人であった方がいい。動画でいくらすごい人を見ても、一瞬だけ感化されるだけだ。やはり生の目で見たことこそ、リアルなのだ。

そういうリアルをもって、自分を変える。外を出歩かなくてはならないわけだ。コロナのせいにしている場合ではないが、コロナで外には出ない。では。では、どうすべきか。

永遠に考えよう。

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