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司馬遼太郎「草原の記」読書感想文

空想に付き合っていただきたい。

という書き出し。
次に1行が空く。

モンゴル高原が天に近いということについてである。
と続く。

それからの語句のチョイスがいい。
天、空、馬、草、という語句が、モンゴル高原の様子を目に浮かばせる。

なんか詩的だ。
今回の司馬遼太郎は。

この本を目にしたときから、絶対におもしろいだろうなと思ったのは当たりだった。

というのも。
司馬遼太郎は、大阪外語学校で蒙古語を専攻していた。
作家になるずっと前から、モンゴルに興味を抱いていた。

それに戦争中は、戦車兵として満州の北部に出征している。
大陸の草原を肌で知っている。

その司馬遼太郎が、モンゴルに行き、草原を描く。
おもしろくないわけがない。

この「草原の記」には7章がある。


感想と疑問

書かれたのは1990年。
2回目にモンゴルを旅して書かれた。

直行便がないので、ハバロフスクからイルツーツク、そこからウランバートルへ入る。

神に感謝したい思いだ、と本当に楽しそう。
モンゴルに寄っている心情が、ひしひしと伝わってくる。

いや、寄っているどころではない。

モンゴル高原にあるウラル山、そこに連なるアルタイ山、ここから発祥したウラルアルタイ語族に日本人のルーツを見出している。

読みながら、なぜ、モンゴルの小説を書かなかったのだろうと不思議になってくる。


文庫|1995年発刊|240ページ|新潮社カバー

装画:中島千波

解説:山崎正和

読み終えてからは、きっと、モンゴルへの思い入れが壮大すぎて書けなかったのかなと想像はした。

ある疑問は、ずっと残ったまま。
少年の司馬遼太郎が、モンゴルに興味を抱いたきっかけはなんだったのだろうという疑問。

なぜ蒙古語?
なんとなくでは、蒙古語は専攻しないのではないか?

いっては申し訳ないのだけど、それほどメジャーな言葉ではないような気が。

現に、教室は10人しかいなかった、戦前はモンゴルには自由に行けなかったとある。

なにか、小さなひとつがあってもいい。
たとえば、あの本を読んでモンゴルに興味を持ったとか。
近所にモンゴル人が住んでいたからでもいい。

そんな疑問がずっとありながら、何冊か読んだのだけど、きっかけを目にすることがない。
この本にもなかった。

「草原の記」ネタバレあらすじ

1. 匈奴

司馬遼太郎 草原の記 匈奴レビュー

紀元前のモンゴル人は、騎馬のまま現れた。

「あれは人ではない」と驚く人々に、彼らは馬上から「自分はフンだ」と名乗った。

モンゴル語では「人」のことを「フン」という。
ヨーロッパで “ フン族 ” と恐れられたのは、騎馬の彼らではないのか。

漢族では、匈奴と書いて “ フンヌ ” と読む。
そして漢族は、匈奴をわるく書き放題だった。
侵略者だと、だから万里の長城を造ったと。

しかし、農耕民族のほうが侵略者ではなかったのか?

草原は生きた皮。
農耕民族は、鍬で表土を粉砕してしまう。
表土が吹き飛べば、もう草は生えてこない。

匈奴が遊牧から戻ってくると、漢族が草原に鍬を打っている。
「掘るな!」と武力で追い払った。
ついでに略奪もした。

そんな想像の間に、司馬遼太郎は一文を挟む。

小説とは、仮に定義を言うとすれば美学的に秩序付けられた妄言と言ってよく、その意味ではここに書いていることもまたとりとめもない、と。

空想であるとか、想像であるとか、念を押しながら気をつかって書かれているのを感じる。

なんら根拠は示されてない。
が、後年の読者に向けて想像が投げ放たれたようで、読んでいて気持ちがいい。

2. シベリアの暖炉

司馬遼太郎 草原の記 シベリアの暖炉 レビュー

シベリアの暖炉とは、ミヌシンスク盆地を表している。
バイカル湖から80キロ離れた位置にある温暖な盆地。

モンゴル行きの経由地でもある。

“ シベリア文明 ” の一大拠点がここにあった、と司馬遼太郎は当地でいう。
夢のような話になるが、と補足はしている。

このシベリア文明は、青銅の技術を持っていた。
馬具と武器が作られた。

紀元前600年から紀元前300年ころに、一部がモンゴル高原に登り匈奴帝国が出現した。

そこから、スキタイ民族、キルギス人、チベットのラマ僧まで1000年単位で時代が前後に飛びまくる。

現代の地図に古代の版図を重ねて、余談に余談をかぶせるという自由な想像が止まらない。

さらに、以下はまったくの余談であると、ミヌシンスク盆地と自身の遠い関わりも明かす。

ここ、ミヌシンスク盆地では “ 李陵 ” の屋敷といわれる漢風の遺跡が発見されている。

李陵は漢の将軍。
匈奴と戦って降伏したが、優待されて、かつての敵地で生きた。

漢の “ 武帝 ” は激怒する。
その李陵を弁護したのが宮廷の役人だった “ 司馬遷 ” で、そのことで宮刑に処された。

宮刑とは、男根を切り落とされるという刑。
当時の考えでは、子孫を残すのが絶たれるのは最大の恥辱で、奴隷ですら自殺した。

が、司馬遷は『史記』の編纂のために生きる。

で、軽く2000年経った昭和の日本で。
作家になる直前の福田定一がペンネームを考えていた。

傍らには司馬遷の『史記』があった。
そのときに、司馬遼太郎という名が浮かんだ。

どうしても司馬遼太郎は。
この地域と関わりを持ちたいらしい。

3. 黒い砂地〔カラ・コルム〕

司馬遼太郎 草原の記 カラコルムレビュー

草原は空も淡い。
モンゴル人は、くっきりと目印となる原色を好み、会話にはなにかと色が使われる。

カラコルム砂漠の “ カラ ” は黒を指す。

司馬遼太郎いわく。
日本語にしては強い音の「黒」は、このカラから来ているのではないかとのこと。
学生のころからずっと思っているという。

説得力はある。
語学だけでなく、以外とモンゴル筋なのだ。

日本とモンゴルは1972年に国交が結ばれたが、大阪外語学校の先輩が、初代モンゴル大使になっている。

司馬遼太郎は、翌年には、1回目のモンゴル行きをしている。
蒙古語を研究していた恩師と訪れている。

17年ぶりのモンゴルに飛行機は向かい、やがてウランバートルの空港に下りた。

その街路を司馬遼太郎は歩く。
人以外は、17年前と変わってないという。

郊外には、819名の日本人の墓地がある。
シベリア抑留者だ。
彼らが、ウランバートルの街を造った

同世代で心が痛むとある。
それについては可否はないが、文章のタッチがしんみりとしている。

と思っていたら「さて」と、気を取り直してウランバートルについて書いていく。

この都市がなくなったところで、モンゴル人には何の不利益も起こらない。

彼らに必要なのは草原だけである。
草原があれば、200数十万人のモンゴル人は食っていける。

国家的な体面のために都市が必要だっただけ。
都市などいらないという、あっけらかんとした気分がモンゴル人にはある。

私はウランバートルの本質について、以上で言い尽くした。

わずか1ページ半。
それだけで言い尽くしたとある。

余談が過ぎた、話が飛んだ、話を戻す、などを連発する司馬遼太郎にしては、こんな簡潔にまとめられたページを読むのは初めてかもしれない。

呻る気持ちでページをめくる。
すると。

しかし私には農民の子孫として百姓臭い執着がある、とまだまだネチネチと続いていく。
この本で声を出して笑えた箇所はここ。

そうして、モンゴル人は “ 元” を建てて、カラコルムに首都をつくった。

モンゴルの大征服によって、世界は別の段階へ前進した。

「おびただしい屍が残されたが世界は一つとなった」と、もし、当時の中央アジアの隊商の長が叫んだとしても間違いではなかろう。

しかし、草原を出て、街に住んだモンゴル人は弱くなる。
元が滅亡するとモンゴル人は草原に帰った。
“ 北帰 ” という。

言いわすれるところだった。

カラコルムは、元の滅亡後、蒸発したかのようにもとの草原にもどったと、この章は終わる。

4. 城市〔まち〕

司馬遼太郎 草原の記 城市レビュー

ウランバートルとは “ 赤い英雄 ” という意味。
赤いというのは、ロシアに次いで社会主義国になったからではない。

モンゴル人は、もともと赤が好きだった。
草原の中では、目印となる赤が必要だった。

モンゴルの行政単位は、1000戸を1つの単位として “ 旗 ” という。
旗が10や20ほど集まると “ 盟 ” という。

おおよそ草原単位が “ 盟 ” となる。 
遊牧帝国の名残を感じる。

なぜモンゴル人は、漢人よりもロシア人の社会主義国を選んだのか、この章では書かれている。

シベリアの領有を押し進めるロシア帝国は食料に悩んだ。
1727年には、清国との間で “ キャフタ条約 ” が結ばれた。
 
モンゴル高原の脇に、通商路と市場ができた。
このときから、モンゴル人はお茶を買うようになった。

極端な肉食だから、ビタミンCが慢性的に不足していて、馬乳酒を大量に飲んでいたのだった。

手軽にビタミンCが補給できるお茶が流通して、草原に貨幣経済がもたらされた。

同時に、ウランバートルには清国人の高利貸しが多く誕生して、自給自足だった草原の経済に貧困が発生した。

1921年の資料では、ウランバートルの人口10万人のうち7万人が中国人だった。
モンゴル人の住民は、ラマ僧と窮民だけだった。

1924年には、モンゴルは世界で2番目の社会主義国となる。
草原を耕していく中国人を追い出したいがためだった。

そうして、ウランバートルの中国式の建物は、すべてがロシア式に建て替えられた。

5. 雲

司馬遼太郎 草原の記 雲レビュー

司馬遼太郎は、草原に出る。
空には青い空がある。
白い雲はまぶしい。

雲を見上げる司馬遼太郎の傍らには、モンゴル人女性通訳のツェべクマさんがいる。

彼女は、バイカル湖の近くのシベリア平原で、ブリヤート・モンゴル族として出生する。
ロシア国籍の少数民族だった。

一家が満州のホロンバイル草原に移ったのは、ロシア革命の余波だった。

満州事変の砲声を近くで聞き、満州国籍となる。

20歳となった彼女が、ホロンバイル草原の雲を見ていたとき、21歳の司馬遼太郎も日本軍の兵隊として同じ雲を見ていた。

草原と雲と彼女のつながりで、12ページほど満州帝国について書かれているが、それには冷ややかな見方をしている。

ホロンバイル草原も、夏は夜9時ぐらいまで明るい。
射撃訓練が終わらなかった、白い雲がまぶしかったと、当時を振り返っている。

でも、なんかどうか、司馬遼太郎は勇ましい兵士ではなかった気がしてならない。

満州までの長い移動中には、通りすぎる地名と本で読んだ歴史を結びつけて、あれこれと思索している。
どうも緊張感がない。

訓練は厳しかったようだ。
2ページほど、その様子が続く。

が、司馬遼太郎がそれを書くと、どこかのんびりしているように感じるから不思議だ。

6. 虚空

司馬遼太郎 草原の記 虚空 レビュー

満州のホロンバイル草原のツェべクマさんは、日本人の高松シゲ子先生に日本の教育を受けた。

高松先生は、日本の教育を受けても日本人にはならないように、モンゴル人の誇りを持ちなさい、と教えたという。

今でも彼女は、先生の名前を口にするときは、わずかにたたずまいを直す。

尊敬している高松先生だったが、満州国が瓦解したときには学校を卒業していたから消息はわからないという。

帰国した司馬遼太郎は、高松先生のその後を調べる。

やっとのことで、当時の満州を記録した本に、教育者として登場するのを見つける。

当時に、現地の学校に赴任していた若手教師が存命していると判明して話を聞くに至る。

ソ連軍が侵攻してきたのは突然だった。
山に逃げてからは何日も野宿をして、3日間食べないときもあった。

11日目に銃撃される。
高松先生は即死した。

若手は、遺体から鏡と櫛を遺品としてとりだす。
それからは、ソ連の収容所に1年ほど抑留されたが帰国。

大事に持ち続けていた遺品の鏡と櫛は、福岡の実家に届けられた。

そこは “ 羽犬塚 ” という地名だった。

この地名は、奈良平安のころには、駅馬が飼われていた名残にちがいない。
彼女の故郷にふさわしい地名だった。

このくだりを書く司馬遼太郎には、少しの負い目がある。
所属していた関東軍の部隊は、満州防衛の主力だったが、このときには本土防衛のために宇都宮に引き上げていた。

この人々の苦痛と死を身代わりする立場だった、とある。
のんびりした兵士だった、というのは訂正したい。

主題が虚空であるように思えてもくる、ホロンバイルの女先生も輝ける虚空の人だったことにはかわらないと、この章は終わる。

7. 帰ってくる話

司馬遼太郎 草原の記 帰ってくる話 レビュー

帰ってくるのは、モンゴル馬。
モンゴル人は羊や山羊は食べるが、馬だけは食べないし殺さない。

モンゴル馬と他の国の馬はちがう、とモンゴル人はいう。
屈強で忍耐強く、なによりも草原が好きで情がある。
 
モンゴル語には、馬の毛の色の種別語が500ほどあるというから驚く。
飼い主は、何百頭いようが見分けがつくという。

そしてベトナム戦争がおきたとき。
北ベトナムをソ連は支援したのだけど、モンゴルには資金も物資もないので馬を送った。

戦場では物資を運んだらしい。
そして戦争が終わる。

すると、ベトナムのハノイから、モンゴル高原まで戻ってきた馬がいるという。
ジャングルも抜けて、川も渡り、山も越えて。

それが1頭だけではなく、何頭もいるという。
新聞にも載って、国中が湧いた。

そうしたエピソードを見聞きしているうちに、モンゴルの旅は終わりに近づいた。

その日に、司馬遼太郎に乞われたツェべクマさんは、モンゴルの礼装をして、これまでの生を話した。

彼女はホロンバイル草原で、同族の夫と結婚。
娘を持つ。

満州が瓦解してからは、自動的に中国国籍となる。
モンゴルの文化を大切にしようとを発言した夫は、文化大革命で拉致されて監禁され、やがて投獄された。

彼女は娘を抱えて、亡命するようにしてモンゴルへ渡る。
26年後に、釈放された夫が戻ってきた。
数ヶ月ほどで病死したという。

同席して話を聞いていた教授は嗚咽した。

司馬遼太郎は、なにか馬の話をして、その場の空気を軽いものにしたかった。
が、馬に無知すぎた。

帰国後の司馬遼太郎は、ありったけの馬の本を読む。
が、どこにも、馬に帰巣本能があるとは書いてなかった。

しかし、この1000メートルから3000メートルの高原の馬にふしぎさが見られるとすれば、高原の人々にもふしぎさがあってもいい。

彼女の夫が、つらかった生の最後に戻ってきたのは、帰巣であったのかもしれない。

遥かにいえば、元の北帰に似ているようにおもえる、と終わる。


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