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河合雅司「未来の年表」読書感想文

根性論と精神論って聞く。
現在の社会生活では、両方とも過去のものとされる。

が、自分は恥ずかしながら、この年になって、根性論で規則を守るのが楽しいことを知った。

日課も規則、服装も規則、坊主も規則。
私語厳禁も規則、背筋を伸ばして座るのも規則。
行進も規則、そのときに肘を真っ直ぐ伸ばすのも規則。
交談許可で「はい!」と大声で挙手するのも規則。

「規則だから守るんじゃ!」という工場担当の北原刑務官(仮名)は、それらから1ミリでも外れると大声で根性論の激を飛ばす。

「おらぁ、しっかりやれぃ!」「男だったらやってみろ!」「男だったらやりきるんじゃ!」「キツイのはわかっとんじゃ!」「バカになるんじゃ!」「自分のネジは自分で締めい!」

そうすると不思議なことに、根性論が頭がわるい犯罪者と合うのか、そもそも根性論と規則の相性がいいのか、多少の洗脳もあるけど、とにかくも、受刑者どもは今度は規則を守るのに躍起になる。

行進が規則となれば、ほかの工場の行進に負けないように、一糸乱れることなく足音を立てて進んでいく。

ところが、2年目の工場担当の荒井刑務官(仮名)は、根性論が精神論となったようだった。
規則を守るとは、社会復帰が、認知が、選択が、プロセスが、再犯が、などと奥深く結びつけられた。

そうすると、屁理屈で数々の規則を破ってきた犯罪者は、かつ、事件を自身だけの特権として行使してきた犯罪者は、この場合は規則を守らなくてもいい、この場合は規則はいらない、誰の場合は規則はこうでいい、と変化させる。

受刑者も出入りして面子も変わっていくにつれて、規則が空中分解して、結局は荒井刑務官は問題を起こして外された。

・・・前置きが長くなってしまった。

どういうことかというと、規則はもとより、法律もそうだし、ルールでも社会規範でも道徳でも倫理でも、ほとんどは一瞬の根性で守ることができる。

その一瞬の根性を、わざわざ押しのけて振り払って「なんで?」「どうして?」「こうしてみたら?」「これでいいでしょ?」などと、ある意味、創造して独創して考える人は、知らず知らずに刑務所に近づいている。
正邪は別にして。
繰り返すけど、正邪は別にして。

それを言い切る自分は、かの地の彼らからの洗脳が解けてないかもしれない。
だって、いまだに1人で行進してみるだけで、根性が入って社会の規則が守れる気がしてしまうのだから。
しつこいけど、正邪は別にして。

ともかく、そんな頃の読書感想文なのです。


きっかけ

この本が発刊された当時は未決囚。
雑誌や新聞で、何度も紹介記事で見かけた本だった。
少子高齢化の日本を悲観的に分析した本、という印象。

だってそうではないか?
素人がどう考えてみても、年寄りが多くて若者が少ない社会には無理がある。

それでも、少子高齢化には楽観視していた自分だった。
なんとなく、根拠もなく、ただ楽観している。

それではいけない。
ここいらで専門家の悲観論をたっぷりと浴びて、その楽観している気分を引き締めたい。

この読書によって、自分のネジを自分で締める。
くねくねと自己批判するだけでなくて、根性で自身を律せれるだけでも、自分は変わったのかもしれない。

そういう根性で、官本で借りた本。

新書|2017年発刊|208ページ|講談社

読感

無学を感じた。
こう書かれていると「そうなんだ」とうなずくし、ああ書かれていると「やっぱ、そうなのか」と腕を組むし、またこう書かれていると「うぅぅ」と呻るのみ。
根性だけでは、どうにもならないのだった。

でも、ちょっとばかり煽りすぎかな、とは感じる。
普通に事実を示すだけでもいいのに、変に煽りすぎちゃって、ひと昔前の “ 環境問題カルト ” によく似た “ 人口減少カルト ” の匂いをうっすら感じてしまった。

年表のまとめ

著者は、人口減少をデータに基づいて算出していく。
その上で、人口減少による年表を挙げていく。

2020年 女性の2人の1人が50歳以上に。
2024年 3人に1人が65歳以上の「超・高齢者大国へ」
2025年 ついに東京都も人口減少へ
2026年 認知症患者が700万人規模に
2027年 輸血用血液が不足する。

同時多発的に、重大な社会問題もおきていく。
国立大学が倒産の危機に、企業の人件費がピークを迎えて経営を苦しめる、IT技術者が不足する、介護離職が大量発生、などなど。
そして、人口減少は止まらない。
河合先生は、淡々と年表を示す。

2030年 百貨店も銀行も老人ホームも地方から消える。
2035年 未婚大国が誕生する。
2040年 自治体の半数が消滅の危機に。
2045年 東京都民の3人に1人が高齢者に。
2050年 世界的な食糧争奪戦に巻き込まれる。

さらに人口減少は止まらない。
2015年には1億2700万人を数えた日本の総人口は、ついに1億人を切るのだ。
まずいではないか!

西暦2055年  日本の総人口は、9000万人を切る。
西暦2100年頃 5000万人ほどに減る。

このくらいまでは、そんなものだと思う。
ところが、そのあと河合大先生は暴走をする。

西暦2200年頃 日本の人口は、およそ1380万人。
西暦2300年頃 日本の人口は、450万人まで減る。

あくまで机上の空論とはしている。
が、そろそろ誰か、大河合大先生を止めたほうかいいのでは・・・という予感もしてくる。
その予感は当たる。

西暦2900年頃 日本列島に住む人口は、わずかに6000人。
西暦3000年頃 同じく2000人にまで減る。

正気なのだろうか・・・?
どう考えても、そんなわけない。

生き物が持つ生命力というものは、人口減少に対して、もっと働きかけをしないのだろうか?
とくにゴキブリ並みといわれる人間の生命力は、とくに働きかけをしないのだろうか?

なにが彼をこうさせたのだろう?
人口減少よりも、そっちが気になる。

人口はどこまで増えればいいのか?

国力が成長するのは、人口が増えるのが望ましい。
それはわかった。
そこでまた素朴な疑問が湧く。

いったいどこまで人口は増えればいいのだろう?

そりゃ、1億人よりは2億人がいいにきまってる。
労働力も増えるし、生産も向上する。
社会インフラも、社会保障も維持できる。

そこでさらに2億人から3億人に増えても同じことがいえる。
3億人から4億人になればなおいいだろう。
4億人から5億人でもいい。
けど、日本の国土に5億ともなれば、えらいことだ。
また違う問題も発生する。

要は、人口は増えても減っても問題はおきる。
いずれにしても、いつかは人口減少にはぶつかる。

適正な人口というのは、ないのかもしれない。
時代背景や年齢構造や、技術や産業や経済の変化によって、人口は絶えず増減するものではないのか、とは考えた。

新たな年齢区分だと3.2人

「新たな年齢区分で計算する」と著者が提唱する説が、いちばんにしっくりときた。
以下である。

65歳以上を高齢者とする線引きを “ 75歳以上 ” とする。
いってみれば、高齢者以外の枠を広げる。
一方で、14歳以下と線引きしている子供も “ 19歳以下 ” と引き上げる。
この年齢区分で、高齢者1人を何人で支えればよいのか、改めて計算し直す。

すると、団塊世代が75歳以上となる2025年は「3.7人で1人」を支える計算になる。
65歳以上がピークを迎える2042年でも「3.2人で1人」という計算になる。
現状の「2.4人で1人」を支えるのとは見方が違ってくる、と著者はいう。

たしかに「2.4人で1人」だと絶望感がある。
「3.2人で1人」だったら、あとは技術の進歩でなんとかなるのではと救われた気持ちもする。

新たな年齢区分は、数字のトリックでもないようだ。
高齢者は若くなっているから75歳からでもいいだろう。

だって、サザエさんの波平は53歳だ。
あれで53歳。

昭和の前半では、55歳が定年。
65歳くらいまでは平穏に老後を過ごして、70歳くらいで死去、80歳ともなれば超高齢というのが一般的だったという。

いずれにしても、これからの少子高齢化社会では、75歳までは元気で働くことを考えなけらばならない。

独居房のコンクリートの天井を見上げた。
そのためには、なにをすべきなのだろうか。

ちなみに、フネは48歳。
48歳で、すでにおばあちゃんだ。
今の48歳の女性なんて、まだまだ女ざかりなのに。
2020年には、女性の2人の1人が50歳以上になるとこの本にはあるが、そこは熟女好きな自分は心配いらないだろう。

結局は、すぐにそういうところに考えが及んでしまう自分が、自分で残念になる読書となってしまった。

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