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司馬遼太郎「ロシアについて」あらすじ - 後半

この刑務所には、懲役5年以下の短期受刑者が集まる。
平均すると3年ちょっとくらいで、そのなかで4年6ヶ月というのは長いほうの扱い。
刑務官だって「長いな・・・」という。

やっぱり長いな・・・と感じるのは、自分よりも後から来た者が、先に出ていくとき。

盗撮だとか無免許運転などは懲役2年もいかないので、未決勾留も引いて、仮釈が5分の1だとすれば、1年ちょっとで出所してしまう。

あっという間の者が続くと、気が遠くなる。
そしてまた読書に逃げ込む。


大黒屋光太夫との再会

この「ロシアについて」の作中では、実在の人物が多数紹介される。

そのうちの1人に大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)がいる。

彼は五木寛之が「ソフィアの歌」で追いかけた人物。
江戸時代後半に船頭をしていて、遭難して漂流して、ロシアに10年近く滞在して、皇帝に許可を得て帰国。

彼がロシアから持ち帰った歌は、かの地のソフィアさんが歌ったのではないかと五木寛之は推測している。

印象に残っていて興味深くてマークしていた者で「あ、また、光太夫さんいる!」と再会したかのようにうれしい。

ゴローニンの絶賛

本も紹介される。
作中で紹介される本って絶対に読みたい。

1807年に来日して捕縛されたロシア海軍のゴローニンの「日本幽囚記」は「文章がいい」と司馬遼太郎は絶賛している。

まだ読んでないけど、ゴローニンは、司馬遼太郎の「菜の花の沖」に登場するらしい。

とすると、ゴローニンの「日本幽囚記」と、司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読んでみたくなる。

大黒屋光太夫については、井上靖が「おろしや国酔夢譚」で描いてもいるというから、それも読んでみたい。

読書ノートにその3冊を記入した。
これだけで満足するし、これをするだけで仮にあと半年は懲役がプラスになったとしても耐えれそうなほど楽しくなる。

さっそく話が飛んだ。
この本のあらすじである。

単行本版|251ページ|1986発刊|文藝春秋

「ロシアについての」まとめ

9世紀のキエフ国に源流がある

ロシア平原のスラブ人の農耕社会を “ 海賊 ” を生業としていたスウェーデン人が支配してキエフ国をつくった。
9世紀ごろである。

12世紀末となると、ロシア平原はモンゴル帝国の勢威に飲み込まれる。

広大なロシア平原を支配したのは、1万人足らずのモンゴル人の騎馬隊だったと記録にある。

ただ、モンゴル人は、どの宗教であっても寛大だった。
そのため、ロシア正教は存続していた。

これにより、20世紀の帝政ロシアの終焉まで、ロシア正教の洗礼を受けて教会に属することがロシア人になるのと同義となる。

のちにモンゴル帝国は瓦解して、残党ともいえる小国家 “ キプチャク汗国 ” がロシア平原に居座った。

国民的トラウマの「タタールのくびき」

キプチャク汗国の暴力的な支配は259年間続いた。
これは “ タタールのくびき ” と暗色に呼ばれる。

1502年、銃と大砲の発達により、騎馬と弓矢で戦うキプチャク汗国は倒される。
騎馬隊は、それぞれの遊牧地を求めてロシア平原を去った。

“ タタールのくびき ” は終わったが、これはロシア人の国民的トラウマとなって残っている。

外敵を異様に怖れるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また、火器への異常信仰。

ロシアの性向は “ タタールのくびき ” の文化遺伝と思えなくもない。

モスクワ公国とコザック集団の結成

1533年、モスクワ公国のイヴァン四世(雷帝)が即位し、独裁的政治をおこない、ロシア国家の基礎ができ上がる。

ロシア体制とは、貴族と農奴という単純な二元構造ででき上がっていた。

貴族は土地を所有し、その土地に乗っかっている農奴は私有となり、土地とセットで売買される。

農奴は生存だけは許されて、労働を絞りとられ、移動や移籍の自由はなく、非違があれば生殺を含めた刑を受ける存在だった。

このロシア体制からは逃亡者が生じた。
“ コザック ” と呼ばれる。

農奴の身から逃亡して、辺境に住む集団となる。
自由ではあったが、政府軍の追撃もあるし、捕まれば死刑になる。

ストロガノフ家の傭兵となったコザック

東方のシベリアに進出したのは、このコザックだった。
まずは、毛皮商人のストロガノフ家が、有力なコザックの一団に傭兵となるように持ちかけた。

ストロガノフ家の傭兵になれば、死刑も取り消されて、英雄にもなれて、富も手に入る。

これはどういうことなのか?

毛皮商人のストロガノフ家は、その調達のためにシベリアへ進出したい。
中国との交易の道も打通したい。
が、シベリアには、敵対するモンゴル系のシビル汗国が控えている。

このシビル汗国を倒す皇帝の勅許を、ストロガノフ家は得ていたのだった。
武装兵を持つ権利も付与されている。

ということは、ストロガノフ家の傭兵となり、皇帝の勅許でシビル汗国を攻撃すれば官軍になる、との論法が成り立つ。

1581年、コザックの一団は官軍としてシベリアに向かった。500名だった。

この500名の一団は、シビル汗国と戦うつもりはない。
原住民から毛皮を奪うだけで十分だったからだ。

東方の原住民にとっては、盗賊団であることには変わりがなかった。

皇帝には新たな領地が献上された

ところが以外なことがおきた。

モンゴル帝国の系譜であるシビル汗国は最強だと思われていたのに、以外に弱いのをコザックの一団は知ったのだった。
銃と弓矢の差だった。

わずか2年後の1583年、シビル汗国の都はコザックに占拠され、騎馬隊はこの地を去っていく。

ここに、ロシア皇帝、ストロガノフ家、コザック、3者の利得は一致する。

皇帝には、新たな領地が献上される。
ストロガノフ家は、より多く毛皮をヨーロッパに売れる。
コザックは、官軍として、原住民から毛皮税を取り立てれば金になる。

壁となっていたシビル汗国が亡くなったことでシベリアへの障害がなくなり、冒険的なコザックを中心とする任意の征服者たちが、競うようにしてシベリア進出に乗り出した。

コザックは皇帝直属の配下に変貌する

皇帝としては、対貴族政治のために、ほかの貴族よりもはるかに大きな領地を持つ必要がある。

コザックとしては、土地はなんの利益をもたらさないものだったから、皇帝に献上しても損はない。

コザックの征服者たちは、先例にならって征服した土地を皇帝に献上する。
皇帝は領地が拡大することに十分に満足する。

元来は窮民であり、多くが体制から逃亡した犯罪者であったコザックは、士族団とは別系統ながら、皇帝直属の配下となっていく。

後代には、両者はますます密接となり、コザックは皇帝の親衛隊の気分を持つに至る。
反乱や内乱には皇帝の部隊として活躍する。

20世紀のロシア革命にあっては、多くのコザックが反革命の立場をとるに至った。
その原型がシベリア征服に見られるといえる。

征服者たちは毛皮税を取り立てた

余談ではあるが、江戸時代の鎖国初期、オランダに対抗したイギリスが商館を長崎と大阪と駿河に設立した。
そして、売ろうとして持ち込んできた商品は毛皮だった。

日本では毛皮を身につける習慣がない。
過去には、中国から贈られた毛皮を天皇が身につけたこともあるが、それでも普及しなかった。

気候に合わないのだ。
このときも、毛皮はさっぱりと売れずに、イギリスは11年で撤退している。

話が飛んだ。
ロシアについてである。

1652年、イルツーツク征服。
1689年、バイカル征服。
1701年、カムチャツカ征服。

シベリアには意外なことに、オリエント文明の痕跡がある。
モンゴル系とアジア系のほかに、トルコ系の原住民も多い。
多民族の地域となる。

征服者たちは、原住民を酷使して毛皮税を取り立てた。
とはいっても、狩りをする伝統も必要もなく、技術もない原住民の村もある。

毛皮税を果したところ拒絶したため、皆殺しにされた村もあった。

もし、パリに貴婦人たちが、毛皮に見向きもしなければ、ロシアのシベリア領有はだいぶ遅れていた。

日本人とロシア人の遭遇

もはやシベリアの黒貂(くろてん)は乱獲によって減少したため、北海に生息するラッコの毛皮が重宝されていた。

1788年、アラスカに進出。
同じころ、千島列島の択捉島にも進出する。

そこでロシア人たちは、択捉島の原住民であるアイヌ人とも、日本人とも出くわすこととなる。
無防備な裏木戸に足音がする、という出現の仕方だった。

ロシア人は日本人に対して、食糧の交易を申し入れるが、鎖国政策のため正式には受け入れられなかった。
幕府はロシアの出現に動揺する。

1799年、イルツーツクの毛皮業者60余りが合併。
国策商社である露米会社(ロシア・アメリカ・カンパニー)が設立される。

露米会社によって、ロシア領アラスカでのラッコ乱獲は行なわれた。
ラッコの捕獲船は、奴隷船の様相だった。
原住民への残酷な扱いには、非難の世論もあった。

この国策商社の露米会社は、今後、十分に研究されてもいいほど興味深い。

日本と国交が結ばれる

1803年、ロシア宮廷佐官のクルーゼンシュテルンがロシア皇帝の命で世界周航をして長崎に到着する。
長崎を、国交の窓口としていたからだった。

しかし幕府は、ロシア皇帝からの国書すら受け取らずに、鎖国が祖法であるのを説いてきかせるのに終止した。

この対応に、クルーゼンシュテルンの一行は暴挙にでた。
樺太の幕府施設に押しかけて、焼き討ちと略奪をおこなう。

慌てた幕府軍が攻めてくると、防備して抵抗。
後に出航して、1806年にロシア本国へ帰着している。

1807年、ロシア海軍のゴローニン少佐が世界周航をして日本を訪れるが、国後島陣屋で捕縛される。

先のクルーゼンシュテルンによる襲撃の報復であり、かつ、ロシア事情を詳しく知るための措置だった。

1853年、ロシア海軍プチャーチンが世界周航をして長崎に訪れる。
ペリー来航の1ヶ月後のことだった。
幕府の態度は難化しており、条約交渉がはじまり締結。

ここから、日本とロシアとの国交が開始されたのである。

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