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陳舜臣「秘本 三国志 5巻」読書感想文

律儀だったのが原因か?
正月に、檻の中で、この「秘本 三国志」を読んでいると、そんな気がしてきた。

約束したから。
世話になったから。
恩があるから。

それらを基にした仕事も行動も、いま思えば要所にあった。
律儀とも言われもしたし、わるい気はしなかった。

口約束でも実行する。
決めたことは守る。
誠実には誠実で返す。

それらも欠かすことがなかった。

だからいけなかった。
こんなところに入ってしまった。

もちろん、律儀なのは必要で大事なこと。
いちばんには、悪事をしたのがいけないのであって、律儀のせいではない。

それは承知の上で、今、檻の中にいる原因はなにかというと、律儀がひとつにある。

約束など破ってもいい!
世話になったなんてどうでもいい!
恩は仇で返してもいい!

そういうように、自分に1回でも言えたなら、こんなところでの正月はなかった気がする。

ここを出たら。
以前よりも律儀にはしない。

律儀とは言われないようにする。
もちろん程度の問題だけど、律儀の一言で済ませない。

「秘本 三国志」を読んだ感想のひとつだった。


答え合わせの読書

檻の中で読む陳舜臣の「秘本 三国志」は、答え合わせの読書となっている。

登場人物が多いのがそうさせる。

今までを振り返って、あのときこうすればよかったのか、それともこうでよかったのか、ほかになにかなかったのか、いや、それでよかったんだ、と多くを考えさせられている。

いい読書ではある。
今、檻の中で、この本を読めてよかった。
娑婆にいたときだったら、考えはもっと薄かった。

その一方で、読書の限界も感じる。
どれだけ読書に時間をかけても、はやり現実には及ばない。

100冊も200冊も本を読んだところで、実際の人間社会に住んでいる感覚を超えることはない。

1人こもって読書をしている時間があるということは、どれだけ無難な傍観者でいられて、無味で無色も伴うことか。

人と人が擦り合わさって熱が出て、磨り減りもして、傷つけて傷つけられて、苦しさ苦さもあれば鼓舞もあって、憤りもあれば悔しさもあって、笑ったり楽しさもあって、悲しさもあって、という感覚が懐かしい。

早く社会に出てそれをしたい。
そう思えたことに、勇気も感じれた読書だった。

単行本|1974年発刊|288ページ|文藝春秋

初出:オール読物 1974年新年号~

※ 筆者註 ・・・ 読んだのは単行本のほうです。
画像は1982年発刊の文庫本となってます。

西暦208年、赤壁の戦い後の各陣営

※ 筆者註 ・・・ 本当は手直しして洗練された相関図にしたかったのですが、獄中の読書録をそのまま撮ってUPに至りました。

おおよそ、三国の形を成してきたようである。

曹操の『魏』。
孫権の『呉』。
劉備の『蜀』、となっていく。

赤壁の戦い

赤壁の戦いとは、曹操と孫権の戦い。
劉備とは同盟を結んだが、ほぼ孫権の戦いである。

長江での船による戦いで、孫権が勝利した。

周瑜の実績

周瑜(しゅうゆ)は、1巻から登場している。
孫策の友人であったが、首長となった孫策の臣下となって、将校として活躍している。

孫策が戦死したあとは、後継者の孫権の臣下となる。
周瑜なしには、孫権勢力は語れない存在だ。

赤壁の戦いでは、主戦論を説いて、戦局を有利に切り開く。
戦後は河北4郡を治める。

周瑜と魯繡の対立

問題なのは、周瑜と魯繡(ろしゅく)の対立だ。
劉備への対応についてだ。

赤壁の戦いの際して、劉備は孫権と同盟を結んでいた。
で、戦いの混乱に乗じて、河南4郡を実効支配しているのだ。

周瑜は排除策。
魯繡は友好策。

首長である孫権は、魯繡の友好策を採る。
曹操の侵攻を警戒しての判断だった。

西暦209年、劉備が結婚する

相手は孫権の妹である。
孫尚香という。

いわゆる、同盟のための政略結婚である。
劉備が48歳、孫尚香は10代。

結婚してからのしばらくして、孫尚香は里帰りを希望。
劉備は京口まで同行して、孫権の一同に歓迎される。

が、周瑜は謀殺を図り、失敗する。
直後に、周瑜は病死。

以外なことに、後継者には対立していた魯繡を推す。
なんのかんのいっても、いいヤツである。

白眉の語源となった馬良

劉備の陣営は、にわかに拡充したようである。
関羽張飛諸葛亮に、趙雲が加わる。

曹操陣営からは、馬氏五兄弟が仕官を求めて移ってきた。
馬氏五兄弟については、中でも馬良が優秀だった。

で、この馬良は眉毛が白かった。
優秀な人物を指す “ 白眉 ” の語源となった人物である。

ちなみに陳舜臣は、この作中で、現代でも使われる語源をいくつも紹介している。

“ 牙城 ” も、この時代からきている。
城郭の中には、本拠地となる城が築かれていた。

そこには、象牙の飾りがある旗を掲げていた。
牙城の語源となる。

“ 牛耳る ” も、この時代の儀式からきている。
同盟を交わすときには、牛の首を置き、耳を切り、流れる血を同盟を交わす者同士で口にした。
牛の耳の血を口にするで、牛耳るの語源となる。

あと、これは語源ではないが、将兵が鉢巻をするようになったのもこのころ。
鉢巻は、元々は土木作業員がするものだった。

これは実用的だと、曹操が鉢巻をしていたから将兵もするようになった、と陳舜臣は記している。

曹操の死まで

西暦208年、赤壁の戦いのあと

孫権には大敗したが、体制は磐石である。

曹操は53歳。
後継者問題でも悩む。

西暦214年、宮廷での影響力を強化

皇后に謀反の疑いをかけ、献帝に皇后の廃位を迫る。
のち捕らえられて獄死。

反曹操の排除のための策謀に、皇后は引っかかってしまったのだった。

西暦215年、

60歳となった曹操は “ 西伐 ” をする。
西部を攻めて、残っていた漢帝国の勢力を臣従させる。

五斗米道の本拠地も攻められたが、これにより教団の分裂派は一掃されたのだった。

まとまった五斗米道は、各地に道場を建設していく。
戦乱の死者を弔い、避難者を保護する拠点にもなる道場だった。

少容は “ 教母 ” として、曹操に招かれることが増えていた。
情報提供もするし、アドバイスも求められるのだった。

西暦220年、関羽と曹操の死

この前年の孫権軍と劉備軍との戦いで、関羽が敗走。
捕縛されて、のちに斬首となる。
生年不詳だけど、おおよそ50代半ばの没。

直後、孫権軍の将軍が病死。

関羽の首は、曹操に送られた。
曹操は、以前には関羽を臣下としていた時期もあったから葬儀を行う。

その葬儀のあとだ。
曹操は病死する。
65歳。

以降、関羽は祀られる。

世代交代が進む中で、最終の6巻となる。
1巻の黄巾の乱から36年が経つ。


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