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陳舜臣「秘本 三国志 6巻」読書感想文

心に残る短文ってある。
その短文だけで、情景が伝わる一行。

はじめて、そのような短文があることに気がついたのは、司馬遼太郎の「義経」になる。

若い義経が、夜に女の寝室に忍びこもうとして、屋敷の庭先で隠れて待つときだ。

『 蚊がいる。』

という4文字の一行だけで、待つ時間を済ませる。
読む目を止まらせた。

一気に夏の夜を思わせた。
じっとしているとプーンという蚊の音がうっとうしくて、何箇所も食われているのにパンッと叩けなくて、早くしてくれという義経の苛立ちが伝わってくる。

これが、行間を読ませるというヤツなのか?

あとは川上未映子だ。
すべて真夜中の恋人たち」だ。
この本にも、妙に心に残る短文があった。

デートの帰り道の入江冬子は、嬉しくて幸せな気持ちのまま自宅へ戻っている。

スキップ交じりにもなって自宅の前につくと、誰かが外で待っているのに気がつく。

『 聖だった。』

この4文字での一行で、楽しい時間がキュッと締められる。
これから、わるい展開になるのが伝わってくる。

瞬間だった。

石川聖の表情はどこか不機嫌そうで、なにかを言いたそうな睨む目で、お互いに挨拶もぎこちなくて、吐く息は白くて会話は少ないだろう場面が描かれた。


陳舜臣も、この「秘本 三国志」で妙に心に残る短文を書いて締めている。

ラストの部分だから、なおさらかもしれない。

西暦234年となっていて、1巻の黄巾の乱からは50年以上が過ぎている。

五丈原(ごじょうばら)の陣中で諸葛亮孔明が息絶える。
80歳を過ぎた少容が見届ける。

『 それが彼の死だった。』

この短文の一行に、読む目が止まる。
これは “ 秘本 ” なんだと思わせた。

単行本|1974年発刊|文藝春秋

初出:オール読物 1974年新年号~

※ 筆者註 ・・・ 読んだのは単行本のほうです。
画像は1982年発刊の文庫本となってます。

曹操の死のあとの勢力図

※ 筆者註 ・・・ 本当はデザインされた勢力図にしたかったのですが、やはり無理でした。獄中の読書録をそのまま撮ってUPに至りました。

西暦220年、曹操は病死する。
遺体は仏式の火葬にされた。

土葬にされて腐るよりは、焼かれて灰になったほうが潔いと生前の曹操は好んでいたからだった。

後継者は、曹操の長男の曹丕(そうひ)だ。
魏王に就いた。

宮廷には圧力がかかった。
曹家の者で占められている状況だからだ。

献帝は皇位を譲る。
これは “ 禅譲 ” といわれるようになる。

ともかく、漢は14代で滅亡した。
新しい皇帝となった曹丕は文帝を名乗る。

が、5年後に文帝は死去する。
これにより、息子の曹叡(そうえい)が明帝に即位。

魏の体制は磐石となったようだ。

蜀のはじまり

献帝が皇位を禅譲した翌年の西暦221年に、劉備は対抗するかのようにして蜀の皇帝を名乗る。

以前から劉備は、漢の始祖の劉邦の末裔を自称していた。
こっちが正統派の皇帝だぞ、ということだ。

なんにしても、これにより『蜀』が成立した。
が、皇帝となった劉備は2年後に病死する。
61歳没。

すでに古参の張飛も、部下との不和から暗殺されている。
世代交代したのだ。

息子の劉禅が皇帝に即位。
まだ20歳だ。

諸葛亮孔明が、政務の采配をふるうことになる。

孫権も皇帝に即位

孫権の動きはどうだったのか?
地位としては、一国の首長というところである。

西暦224年。
孫権は、蜀の皇帝となった劉禅と同盟を結ぶ。

魏の文帝が死去した西暦225年には、孫権軍は北上する。
「大葬あれば敵は動く」ということだ。

が、反撃され、あっさり敗走する。

さえない孫権である。
が、西暦229年に『呉』の皇帝を名乗る。

理屈としては「年のはじめに黄色い龍が姿を見せた、聖天子の出現の予兆である、それに応えなければならない」というものであるが、要は魏と蜀に対抗したかったのだろう。

当然として、孫権が勝手に皇帝を名乗るのは、魏もそうだし、蜀としてもおもしろくない。

が、諸葛亮は、同盟のために新皇帝を認める。

もちろん反対する者もいた。
「大義は大義、しかし、国が滅びてしまっては、なんの大義であるか」と諸葛亮は説得。
祝賀の使者を呉に送る。

これで魏蜀呉の “ 三国分立 ” となった。

諸葛亮孔明、好戦的になる

“ 三国分立 ” となってからは、政治の実権を握った諸葛亮が、どうも好戦的になったような気がしてならない。

西暦225年には、動員令を出して蜀軍を編成。
南方に進軍する。

南征という。
諸葛亮も将軍として戦地へ向かう。

が、戦闘はそれほど激しくはない。
敵将と組んでの “ 七禽七縦 ” の故事となるパフォーマンスをして南中の人心を掴む。

諸葛亮孔明、出師の表で鼓舞する

そして、2年後の西暦227年からは “ 北伐 ” だ。
新城の猛達の手紙が発端だった。

諸葛亮は『出師の表』を書いて皇帝に献上する。
遺言ともとれる内容に、将兵は鼓舞される。

“ 文章は経国の大業 ” だという。
諸葛亮も曹操も文章の持つ力を信じていた、と陳舜臣は書いている。

結局のところ猛達は、魏の司馬仲達に攻められて討たれる。
この司馬仲達が、なかなかの食えないヤツ。
魏の中心となっていく。

泣いて馬謖を斬る

蜀の北伐は続く。
「皇帝の僭称者の魏を討つ!」と諸葛亮は勇ましい。

西暦228年には、街亭の役で大敗。
馬謖は軍律を守らなかったと斬首。
『泣いて馬謖を斬る』の故事となる。

北伐は中止となる。

五丈原の密約

北伐が中止になってからしばらくして。
単身で五丈原(ごじょうばら)に向かう諸葛亮がいた。

そこで五斗米道の張魯と会う。
敵将の司馬仲達の代理として来たのだ。

これからの戦いは、勝負なしの持久戦で対峙するという密約を交わしたのだった。

どういうことなのか?

司馬仲達は、保身のために工作が必要だった。
敵に大勝しても立場が危うくなる。

陣営内での妬み嫉みが増す。
宮廷からも乗っ取りの警戒をされる。
粛清されかねない。

諸葛亮としては、不要の流血を避けることができる。
10万の軍を五丈原に駐屯して、人心を見たいという狙いもあった。

司馬仲達の策謀

蜀の北部の領土を、魏が狙っている。
西暦231年、第2次北伐がはじまった。

この戦いで、魏の将軍の張郃が戦死する。
これは、司馬仲達の策謀だった。

張郃を、わざと厳しい戦局に向かわせたのだ。
ライバルを死地へ送ったのだ。

司馬仲達は、地位固めの工作を続けていく。

五丈原の戦い

西暦234年。
諸葛亮は、10万の蜀軍を率いて魏に向かう。
五丈原に陣を布く。

呉は呼応して、10万の軍勢で北上。
が、実際は5万だった。

やがて呉軍は撤退する。
孫権はさえないままだった。

戦いは開始されたが、司馬仲達が率いるの魏軍とは、なかなか勝負がつかない

かつての密約とおりだ。
勝負なしの戦いが、繰り返されたのだった。

秘本三国志の結末

そんな戦いの中、陣中の諸葛亮は病床につく。

そこに少容が訪れた。
80歳を超えていた。

2人は、これからの治世について話す。
“ 教母 ” と呼ばれる少容は、平和のための天下統一を望んでいる。

「心のやすらぎだけでは、人々は救われません」
「・・・」
「天下が束ねられなければ」
「教母、人間はよくなりつつあります・・・」
「・・・」
「希望がもてます」

人々には、諸行無常を説く仏教が広まっていた。
戦いのたびに、仏寺や仏僧が増えていく。

道教の五斗米道も、仏教の要素を取り入れて、戦いと共に発展していた。

秘本三国志の結末

10日ほど経つ。
病床の諸葛亮は、意識が混濁するようになってきた。

再び、少容が呼ばれた。

とりとめもない話をする2人だった。
陳潜は、実の息子だと明かされもする。

長年にわたり一緒に行動してきた少容と陳潜は、母子だったのだ。

話がひと段落すると、諸葛亮はつぶやいた。

「星がみたい・・・、わたしの夢です、夢が星のように飛びます、そして墜ちるのです、この五丈原に・・・」

諸葛亮は息をついて、ゆっくりと目を閉じた。
それが彼の死だった。

それから29年後。

西暦263年。
蜀は魏に下る。

西暦265年。
司馬炎が、曹家の魏を乗っ取り『』を建てる。
司馬仲達の孫である。

晋は呉を滅ぼす。
天下統一が達成される。

ときに、西暦280年。
諸葛亮の死後46年目となる。

これらの形勢は、彼が死の間際に少容に話した通りだった。


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