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謎めいて。不可能なものを結びあわせる

「あらゆるものは、別のものを意味するかぎりにおいてのみ真実であり、別のものを表わすかぎりにおいてそれ自身でありうる」とジョルジォ・アガンベンは『スタンツェ』において書いている。
これは唸る。

難解なので、まだ自分でもうまく説明できるほどには理解できてないけど、これはすごく面白く、例えば発明がなぜ発明なのかということの説明にもなりそうな指摘だ。

メタファーというものを想起してほしい。僕らはそれを何かを別の何かで代替する際の表現方法のように考えがちだ。けれど、アガンベンの先の指摘はメタファーとはそういうものではないということを指摘しているのだといえる。

別の箇所でアガンベンはメタファーについて、こう説明している。

「固有のもの/固有でないもの」という図式のために、われわれは次の点を見落としている。つまり、実はメタファーにおいては、何ものも別の何ものかを代理することはないということである。なぜなら、メタファーで用いられる辞項によって代理される固有の辞項などというものは、もともと存在しないからである。われわれの古いオイディプスの予断--つまり「帰納的な」解釈のテーマ--のみが、われわれにある代理をかいま見させる。それは、ひとつの意味作用の中にあるのは、ただ置き換えと差異のみであるという意味での代理である。

メタファーは代理ではない。代理される辞項など、もともと存在しない。メタファーを使う解釈者が無関係なものに代理をさせる。

謎めいたもの

ここでオイディプスが登場している。
スフィンクスの謎を解いたオイディプスが見つけたわかりやすすぎる答えは果たして本当にスフィンクスの謎の答えとして想定されたものだったのだろうか? 謎と答えの対は果たして、そんな単純な関係にあったのか。答えは本当に謎を代理したのか。
それがここで問われているのである。

しかしながら、古めかしい謎からわれわれがかいま見ることができるのは、そのような謎においてシニフィエは(ヘーゲルが考えるように)問いかけに先立って存在するはずもないということであり、しかもそのシニフィエの認識もまったく非本質的であったということである。隠された「答え」なるものを謎に与えるのは、のちの時代のもたらしたものである。

オイディプスがそう答えだからこそ、はじめて答えは答えとして成立したのである。だが、謎のほうはそもそもそんな答えを前提としない。

『詩学』において、アリストテレスは謎を「不可能なものを結びあわせること」として定義した。ヘラクレイトスにとってあらゆる意味作用は、前述のような意味において「不可能なものを結びあわせる」であり、真の意味作用とはいつも「謎めいたもの」である。

シニフィアンとシニフィエが、一対の謎と答えのようにあると考えているとしたら間違いだというわけだ。そもそも謎そのものが不可能なものを結びあわせることとしてあり、同じくように意味作用も本来謎めいているとヘラクレイトスは考えわわけである。

だから、アガンベンは通常の記号学が考えるのとはまるで異なる記号学を解く。

記号において、表現するものと表現されるものの二重性が暗黙のうちに前提とされる点で、記号は事実上2つに引き裂かれたものである。しかし、この二重性がひとつの記号において表わされるかぎりにおいて、反対に記号は結合され、統一された何ものかになる。分かれているものを統合する認識行為としての「ともに来たるもの=象徴的なもの」は、この認識の真実にたえず背き、告発する「不和をもたらすもの=悪魔的なもの」でもあるのだ。

先のメタファーの機能と同様であり、ヘラクレイトスの考えた意味作用の謎めいた様とも同じことを言っている。そのヘラクレイトスを元にしたアリストテレスの謎に関する考え方も、この記号の二重性、そして、その一方にあるデモーニッシュな性格を捉えている。

アリストテレスは謎を、「不可能なものを結びつけること」と定義したが、それは、メタファーがあばきだす意味作用の核心的なパラドックスをうまく言い当てている。「意味すること」とは、もともとは常に、「不可能なもの」の「結合」のことである。

不可能なものの結合から意味作用は生じる。だとしたら、発明というのもそれと同様のメカニズムによって生じると考えてみたらどうだろう?
であれば、僕らが追いかけるべきは、わかりやすい論理的なものではなく、謎めいて不可能なものの結合なのではないだろうか?

#アガンベン #メタファー #記号学

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