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発見の方法としての結合術

何か、まだ見ぬものを見つけるためには、どうすればいいのだろう?
答えること自体は比較的簡単だ。
普段、見ていない場所、領域に興味を持ってみればいい。同じものを見るのにも普段と違う見方をすればいい。

けれど、言うが易し。実際にその行動をとるのをむずかしい。個人差もあって、やらない人はほんとにやらない。理由は何かわからないが、とにかく自分が慣れ親しんだ居心地のよい場所を離れず、知っていることにしか関心をもたない割に「何か新しい発見がないか」と口にする。残念だ。

見ていない場所、理解しにくいことにこそフォーカスする

何か新しいことを見つけるために、人はいろんな形で情報を集めたりする。人によっては、その集めること自体をリサーチ、調査だと勘違いしているのかもしれない。だが、実際には、情報を集めたりすることだけでは、何も新しいことは見つからない。集めることプラスアルファが発見には必要だ。
また、自分が知っている話題にだけ、知っているキーワードにだけ反応したり、みずからが住む世界に関することしか興味を示さなければ、本当の意味で何か新しい発見になど出会えるはずがない。それはあまりに非クリエイティブな態度だといえる。

シンプルに考え方と行動を変えるべきだ。
1.目を向ける場所を変えるか、2.自分が理解しにくいものにこそちゃんとフォーカスするよう思考態度を変えるか、と。
新しいものを見つけたければ、自分の安全領域になど、いてはいけない。それは自らを発見から遠ざける選択なのだから。

発見とは、結局、発想だ。

発見とは、決して向こうから何かがやってくるというようなものではない。実は自分自身で発見内容そのものを生みだす創造的な行為である。それを理解することが大事だろう。
そう、発見と発想はなんら変わらないものだ。さらに、発見のほうが発想以上の緻密な組み立てが求められる傾向にある。とうぜん、発想法としてのKJ法ができると発見の可能性も高まる。

いや、なんとなく思うのは、KJ法的な思考、つまり、一見、無関係な複数の情報間で、明示されていない関係性なりを見出す思考法ができない人には、何かを新しく見つけることというのは、むずかしいのではないかということだ。アブダクション、仮説形成の推論法が身についてないと発想の延長にある発見には至らないのではないか、と。
それが結局、いつもと違うものをいつもと違う見方でみることの具体的な方法だと思う。

寄せ集めるという結合術

そこでやはり思いだしてしまうのは、ヨーロッパにおける結合術(アルス・コンビナトリア)の伝統だ。異なるもの同士を組み合わせることで、既知のものから未知のものの創出を狙う方法論。有名なところでは、あのライプニッツなども真剣に取り組んだものである。

所謂、驚異の部屋的な博物学的な蒐集もこの結合術的な考えとは無縁ではない。

バーバラ・M・スタフォードは『グッド・ルッキング イメージ新世紀へ』で、こんな風に書く。

人工物か、天然物か、異教の物かキリスト教の物か、普通の物か異国の物かは問わず、ともかくそうした物どものは、見出す行為そのものがいかに偶然と雑然のわざくれであるかを即教えたわけである。精妙に三次元化されたこの寄物陳思のコラージュを眺めてみると、いかに我々の学習が断片を闇くもに集め、編集する骨折りによって成り立っているものかがはっきりしてくる。

自然の秘密から大衆の知識へ」という記事で書いたとおり、かつての驚異の部屋は、錬金術的な組み合わせ術のひとつのかたちであったわけである。
16世紀にジュリオ・カミッロが記憶の劇場を構想したのと地続きの発想で、「闇雲の寄せ集め」といっても、それは新たなものを生みだすための方法としては、上で書いた発見の方法と姿勢としては類似するところもある。

その意味では、ジョン・ノイバウアーが『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』で、こんな風にタブロー=図表を使った「既知から未知の発見法」に言及するのも、結局、KJ法的アブダクションの術の錬金術版だ。

ミッシェル・セールにとって『デ・アルテ・コンビナトリア』とはタブロー化一般についての研究なのである。神の理性はあらゆる図表に抜きんでた予定表であり、予定調和とはあらゆる法則の一覧表のことであり、十全な百科全書とはまたも完璧な一覧表である。図表の助けを借りてこそ、既知のものから未知の項が割り出される。

ここで百科全書という言葉があるとおり、18世紀に盛り上がる所謂、百科全書的試みもこの延長にあり、その目的も発明=クリエーションだ。百科全書がこれまで伝統的な知の外にあった、職人的な技術の知を知の中に取り込んだことで、産業革命が可能になったと見ることさえできる。

反-表象という発明

また、違ったところに目を向けると、ジャンカルロ・マイオリーノは『アルチンボルド エキセントリックの肖像』で、こんな風に書いている。

事物をともかく自然「以外」の何かにしようというのがマニエリスムの狙いであったから、過剰が前に出てきたし、現実の模倣は心から反-表象的たらんとする精神の創意に道を譲った。エキセントリシティがしばしば、自然的なものにグロテスクなものを置き換えたのである。

過剰な組み合わせが現実の模倣を、反-表象の行為に変える。模倣を超えた反-表象、つまり発明にほかならない。
しみとデザイン」で書いたレオナルド・ダ・ヴィンチが壁のしみからの創造を説いたのもこの反-表象ということから考えられる。見方を変えるという発見の姿勢とも同じだ。

寄せ集めの事物で自然以外のものをつくるマニエリスムという意味では、マイオリーノの本の表題にもなっているアルチンボルドの絵画がその代表だろう。

これらアルチンボルドの作品をみると、よく言われる「部分の総和は全体ではない」ということの意味があらためてよく分かる。その総和以外のものを見出す=つくりだすことが組み合わせ術であるし、結局、それがアブダクションということになる。

KJ法では、集めた情報の要素間の裏に隠れた"行間"を読む。その行間読みそのものが発見への手順であり、結合の術そのものだ。そうしたクリエイティブな姿勢で情報をみることをしなければ発見などできるはずはない。

#結合術 #KJ法 #アルスコンビナトリア #発見

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