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自然の秘密から大衆の知識へ

いわゆる「驚異の部屋」と呼ばれる、15世紀から18世紀にかけてのヨーロッパで流行した様々な珍品奇物を集めた博物陳列室に昔から興味がある。
だから、現在、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「ルドルフ2世の驚異の世界展」も観に行ってきた。
16世紀後半のプラハの宮廷には芸術や工芸の作品、天文学の道具や植物、動物などの自然科学にまつわるものなどが幅広く集められていた。その一部が公開された展示である。有名なアルチンボルドによるルドルフ2世の肖像画も出展されている。

そのルドルフ2世のコレクションについて、カウフマンが『綺想の帝国』で次のように述べるのは、あらためてなるほどと思わされる。

宮廷の蒐集のいくつかがときおり訪問者に公開されることはあっただろうし、ごく少数の一般人はルドルフ2世の蒐集のようなきわめて私的なものをも垣間みるようなことさえあったかもしれないが、皇族の芸術室や、とりわけ工程のそれは大半の人びとにとってはまったく無縁のものだった。

こんな風にいまでこそ美術展などで普通に見れてしまうが、当時にしてみれば、それはそうだろう。皇帝の蒐集品を誰もが見られないのは、当然だ。
ゆえに「この種の蒐集を楽しんだ階層は、近代ブルジョワ社会の大衆と同じではない」となる。

ただ、ルドルフ2世のコレクションに関しては、「ルドルフの蒐集の評判は、それをみることのできなかった人にとってさえ伝説となった」のだという。

蒐集の理由

では、普通の人びとが見ることのできない品々を集め、陳列しておくことの意味はどうだったのだろう。特に高価な宝を集めたというわけではないのだから、単なる好奇心からなのか。
カウフマンはこんな風に書いている。

芸術室についてのこうした解釈に多様な点から懐疑的だった研究者たちでさえ、皇族の芸術室が世界中のさまざまな事物のヴァラエティに富む標本を蔵していたために百科全書的な視野に立つものだったという考え方を正面から否定したことはなかった。ほかにどんな特徴的な原理が内包されていようと、芸術室は、同時代の他の蒐集群と同様、世界の一種の雛形(ミクロコスモス)とみなされていたらしいことは以前から指摘されていた。

いわゆる百科全書派と呼ばれる人たちが現れ、書物としての百科全書を編纂するのは、18世紀に入って以降である。その頃には、「驚異の部屋」も洗練され、国家所有の博物館や美術館などへと変容していく。リンネが近代分類学の父と呼ばれるようになったのもこの頃だ。つまり、その時代に、知識、情報をどう分類し編集するかの方法が確立してきたわけだ。

しかし、16世紀の皇族のコレクションは、百科全書とはいえ、まだ、現代に通じるような分類の方法は確立されていない。では、何の秩序もなく集められ、並べられていたかというと、そうでもなきようである。
カウフマンはこう書く。

すでに指摘したように、ルドルフ2世のような統治者はみずからの芸術室において、あたかもカミッロの不思議な記憶の劇場の1つの変形であるかのようにこの世界を把握し制御できると信じていた節がある。こうした解釈を支持する証拠は、以下で論じるように、このほかにもあがっている。オカルト的思考に関心を寄せていたルドルフのような嗜好を持つ統治者たちだけがこの理念を抱いていた可能性は大きいにしても、いずれにせよ蒐集をこの大きな世界の1つの雛型としてとらえる考え方がより広く受け入れられ、一般的に同意されていたということもおおいにありえたことである。この考え方はまた、蒐集を1つの世界劇場ととらえる発想の根底をもなしていた。

カミッロの記憶の劇場は、ヨーロッパで古代から続く「記憶術」をベースにした錬金術的装置として、イエイツの『記憶術』にも紹介されている。その装置は、宇宙のあらゆるものを制御するためのものとして考案されていた。
その記憶の劇場に対するものと同じ期待が皇帝の芸術室にもされていたというのだ。それはいまだ、この時代においてもネオプラトニズム=ヘルメス的、錬金術的な視点を含む自然観が支配していたからである。

秘教的な自然観

一部の人だけがみれる、ある意味、秘密にされているというところに、この時代までに特有の意味があったというカウフマンの指摘はなるほどと思った。

20世紀の研究者たちは、パノフスキーたちが「マニエリスムの時代」と呼びならわしていたものの多くの作品が、思いのほかとらえどころがなく、微妙で、不可解だということに気づいている。芸術は一般大衆とそれほど頻繁に意志を通じ合わせようとしたわけではない。むしろ意図的にその意味を隠すことさえした。警句、綺想、博学を前提とする寓意を発達させた文化においては、メッセージは往々にして一般大衆には向けられていない。前章でも示唆しておいたように、芸術作品は、その外見からは一見わからないような内的なあるいら秘教的な意味を持つこともあるのだ。

マニエリスムの時代は同時に、エンブレムやインプレーサなどの象徴が流行した時代でもある。このエンブレムやインプレーサという象徴は、誰がみてもわかる形で何かを象徴していたのではなく、むしろ、普通はわからず、一部の人がみたときだけわかるような象徴表現がされていたのだという。

例えば、伊藤博明さんも『綺想の表象学』で、エンブレムの特徴として「これらは、秘儀に満ちており、人生であれ特徴であれ、万象の適切で秀逸な例を含んでおり、見識ある人々には明らかにされているが、無知な人々には知られないままである」と書いている。

そもそも、これは自然そのものを神による秘密としてみる自然観があったからで、つまり、その秘密を解き明かすことこそが魔術や錬金術の本質だと考えられていたからである。

それゆえに、新しい学をこの時代に起こしたフランシス・ベーコンでさえ、その自然観から完全に逃れられていたわけではない。いや、むしろ自然に近づこうとすれば、そのアプローチしかなかったのだといえる。

ベーコンの提案がとりわけ神秘学に、すなわち蒐集についての魔術的な観点に結びつくことがあることはこれまでまったく見過ごされてきた。この点に関しては、蒐集についてのベーコンの提案自体が、ベーコンを神秘学できる伝説に結びつけてきた一連の議論をさらに強めてくれるだろう。それはまた、皇族の蒐集が魔術的な記憶の劇場という意味を含んでいた可能性を支持する見解をより説得力のあるものにしてくれるだろう。

このベーコンの神秘学的な傾向は、まさに次のようなベーコン自身の言葉にあらわれている、とカウフマンは指摘する。

「だからあなたの卓越性が知識に、精神の優秀さに、そしてあなたの力の偉大さに、深みを与えるなら、そのときあなたの中にはトリスメギストゥスが宿るだろう」

トリスメギストゥス。その名こそはいわゆるヘルメス学の創始者と後の人たちが考えたヘルメス・トリスメギストゥスその人の名にほかならない。

ベーコンは、記憶の劇場としての、皇族たちの蒐集室を通じて、人はその伝説の錬金術師に近づけると考えていたわけである。

大衆の知へ

しかし、同時に、ベーコンはこの錬金術的な秘術を、より万人が扱えうるオープンなものに変えようとした人でもあった。それがベーコンの新しい学の一番の方針であったともいえる。

ベーコンは、科学的探求の本質的概念を最終的に定式化したために、錬金術あるいは魔術と科学とのあいだの溝に橋わたしをしたとみなされてよいかもしれない。ベーコンにとって、科学は大衆に開かれたもので、民主主義的な協同的なものだった。ベーコンが魔術を非難したのは、魔術にはそうした性格が欠けていたからであった。ベーコンはその「新科学」を定義する計画において、科学研究が「自然の秘密から大衆の知識へ」と展開してような大規模な進歩を望んでいた。

自然の秘密から大衆の知識へ。
ベーコンが観察や実験に重きをおく経験主義的な自然科学的なものの祖としてされるのもこのあたりからである。
だが、祖であるがゆえに古いものと、新しいものの両方をベーコンが持っていたということも、ベーコン自身やこの時代を考える上では大事なことだと思う。
そして、このベーコンらによる転換がなければ、錬金術は科学になりえなかったし、驚異の部屋は博物館にはなりえなかったわけだ。

ただ、あえて言うなら、この転換自体によって、ベーコン自身が『知の球体論』で次のように書く、「3つのものが等しくある」ことが忘れられてしまい、バラバラに別のものとして扱われるようになってしまったのかもしれない。

私としては、技芸が何か自然とは異なれるものであり、従って人為のものは全く種類の違ったものとして、自然のものから峻別されるべしというふうに言ってみるのが流行している現況に鑑みて尚のこと、技芸史を自然史の一部と考えてみたくなるのである。右の如き弊風あるによって自然史の記述家の大方が動物、植物、そして鉱物の歴史を考えれば足りるので、(哲学にとっては最重要な)機械的技芸の諸実験入り込むことなどないと考えるようになっている。……かくて自然は常にひとつたり、自然の力は万物万有に及び、かつも自然は決してみずからを見棄てることはない以上、これら3つのものは是非とも等しくひとり自然にのみ従うのでなければならない。即ち自然の経路、自然の逸脱、そして技芸、というか人間が力貸す自然の3つである。

こうしたつながりを思い出すためにも、16世紀まではあった錬金術的な自然観についても知っておく必要があると思う。

#科学 #錬金術 #ルドルフ2世

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