見出し画像

線を引く(「非デザイン論」に向けて)

線を引く。
デザイナーが線を引き、歴史家が線を引く。
空間の線があり、時間の線がある。

線によって、奴らと僕らは区別され、あなたと私は結ばれる。区切線と接続線。敵と味方。

「と」。
接続詞としての「と」は、二者をつなぐと同時に分けてしまう。
線が引かれているから、接続詞「と」の出番が生じる。
区切ることと接続することは一見逆のことをしているようで、実は同じことの裏表でしかない。

線と言語

線を引くことは認識することである。
こっち側とあっち側。内側と外側。対象とそれ以外。過去→現在→未来。作業順序。道順。時間の経過に伴う何かしらの量の増減。

線で分けられたこちらとあちらに名前をつければ、それで区別が固定される。
男と女。大人と子ども。若者と高齢者。自国民と外国人。健常者と障害者。右派と左派。仕事ができる人とできない人。権力者と平民。

区別ができると比較も可能になる。
大きいか小さいか、重いか軽いか、若いか年寄りか、美味しいか美味しくないか、ツヤがあるかないか、魅力的かそうでないか。こうした基本的な幾何学的な操作が可能になれば、そこから数量的な操作の可能性も生じる。質的評価を経て量的緩和評価の可能性へと発展する。

線を引くことと言語で理解を形成することは、限りなく重なる。
視覚的な区分や関係性の明示が言語的な意味と重なるところに、人間の認識〜理解が形成される。視覚的に見分けることができ、その意味を読み取ることができなくては、物事を認識し理解することはできない。
人間は相違と類似から意味を読みとるのだ。

デザインと民主主義

そして、そうであればこそ、デザインということが可能になる。
デザインという行為が、造形的作業を通じて意味=価値の生成を行うものであるのも、人間にとって、線を引くことと名前(ラベル)をつけることが、認識形成という観点で重なるからだ。

僕が10年以上前に、デザイン思考の本を書いたとき、念頭にあったのは、この線と言葉による意味=価値形成の術である「デザイン」という思考法を誰もが日常的に取り入れられるようになることで、固定化しがちでイノベーションや課題解決の起きない社会をもうすこし民主的に変えていけるようになるのではないかということだった。
誰かにデザインしてもらった社会で生きるのではなく、すこしずつでも自分たちでデザインした社会で生きられるように、人それぞれが線を引くことと言語化することを自分たちの手に取り戻すこと。
そんな民主主義の可能性を感じていた。

しかし、この10年、残念ながら、そうした民主主義的な方向には、デザインというものの可能性は広がらなかった。

画像1

問題の解決が新たな問題を生む

デザインするという行為と、デザインされたものという結果。残念ながら、いまなお相変わらず、後者にばかり注目が集まってしまっている。
デザインをするという創造的作業に参加するより、デザインされた結果を利用しようとする消費的行為に甘んじる人があまりに多いままだ。

デザインというものが認識〜理解の形成の方法であり、また個々人に意味=価値の創造の力を与える民主主義的な方向に進むための方法として、期待した僕からすると、さまざまな課題が山積みの状況になったいまでも、その解決を他人まかせにしたままの人が多い状況が変わらないことにモヤモヤしてしまう。
いや、今年になってのコロナ禍で危険は表面化した状況でなお、そうした姿勢が変わらないどころか、むしろ悪化して、とにかく自分以外の誰かの責任を追求しようとする傾向が強まっているようにさえ感じられる。

残念ながら、そういう状況だとデザインというものは、良い面より悪い面が目立ってしまう。
すでにデザインされた意味=価値の固定や、無責任なその利用ばかりが増えてしまうからだ。

工学的視点からデザインを研究するヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四本になったか』を読むと、デザインというものが、既存の問題=欠陥を解決する手法であると同時に、それ自体が別の新しい問題=欠陥を生み出す活動であることがわかる。

たとえば、例としてあがるのは、缶詰の話だ。それまでの食糧保存の方法であった瓶詰めの問題――容器の瓶が重い、輸送や保管や回収が非効率、製造コストも高い、など――を解決するものとして、缶詰による食糧保存方法は生まれた。
しかし、缶詰にも問題があった。缶詰が生まれてしばらくのあいだ、人々は缶詰をハンマーなどで叩いて壊して開けていたというのだ。つまり、開封しづらいという問題だ。

その解決のためには、缶切りを発明するという新しいデザイン行為が必要だった。

ようするに、ひとつの問題解決は新たな問題を生む可能性があるということだ。
デザインするということは、問題の解決であると同時に、問題発生の行為でもあるという、二面性を僕らは忘れてはいけない。

完璧な人工物などない

なぜ、ひとつの問題解決が新たな問題を生じさせるのか? そもそもデザインという行為の基盤が何かを思いだすとその理由に目星はつくはずだ。

最初に書いたように、線を引くこととその結果に名前をつけることによって、人間は認識〜理解をする。そこから意味=価値を形成するという行動様式そのものが、デザインによる改善の基盤となるものだ。

しかし、そのデザインによる意味の生成という活動を継続して、常にそのときの状況に応じて行い続けていればよいが、そうでないなら状況のほうが変化し、生成された意味がうまく機能しなくなったり、かえって障害となったりするケースも生じてしまうこともある。あらゆる状況に適応したデザインなどというものはない。先の本でペトロスキーも「完璧になった」人工物などありえない、と言っている。

それは男女の違いや大人と子どもの違いがときには差別になるのと同じ理由だ。あるときにはその違いの認識が有効な場合もあれば、それを不適切な場面で不適切に用いれば害になることもある。
完璧な人工物などない。だから、あらゆる道具を場面に応じて適切に使い分ける必要があるのと同様、類型や観念といった思考道具も同様に場面に応じて適切な用い方が求められる。

そして、何より場面というのは、常に以前とは異なるはずだ。ひとりひとりの違いに配慮することもなく、女だからとか子どもだからとか外国人だからとか言っててうまくいくはずがない。そんな適当な思考道具で生身の人間と相対することなどできるわけがない。ほんとはその場その場、その人その人に応じて、新たな思考道具をデザインする、つまり相手に応じた配慮が必要であるはずなのだ。

だから、そうした場面に応じた道具の使い分けや道具の新たなデザインということをサボって新たな意味=価値の形成を怠り、意味=価値を固定して利用していれば、さまざまな差別や権力者による既得権益の濫用、異なるグループに属する者同士と対立や紛争、民主主義とはほど遠い独裁的な政府とそれに文句を言うのみで具体的な改善活動をみずから行うことのない市民の対立といった問題を引き起こしてしまうことになるのは当たり前だ。

そういうデザインを他人任せにしたままにする行為がどれほど社会を悪化させているかということは、ひとりひとりが意識しておく必要があるはずだと思う。

大事なのは、デザインすることではなく、デザインを疑いつつデザインし続けることなのだ。

画像2

線が現実を見誤らせる

意味の固定によって、物事の理解は問題を生じさせる別の例もみてみたい。
線が現実をおかしな認識へとすり替える話だ。

哲学者のアンリ・ベルクソンは「あらゆる運動は、休止から休止までの移行であるかぎり、絶対に不可分である」と『物質と記憶』で書いている。
物理学者など科学者は、ある物体や人間の動作における運動を、その軌跡を線的に思い描くことで、分析の対象とする。しかし、そこでベルクソンが問題視するのは、科学者が実際には存在しない運動の線分ABを想定してしまうことによって、それを可分なものにすり替えてしまうということだ。

線分ABは、AからBへと実際になされ終わった運動のすでに流れた持続を表すとしても、それ自体は不動なものなのだから、なされつつある運動、なされつつある持続を表すことは決してできない。そしてこの線分のほうは部分に分けることができ、その末端は点であるとしても、それを理由に、それに対応する持続も互いに切り離された諸部分から成り立っており、瞬間によって限界づけられていると結論してはならない。

線分ABのような仮想の軌跡を空間的に描いてしまうと、その線分上に無数の点をもって瞬間瞬間が存在しているように創造できてしまう。しかし、それは間違った想像によるものなのだとベルクソンは指摘する。

一見したところでは、私は自分の好きなように、この運動を多とみなすことも、不可分とみなすこともできるのであって、それは私が運動を空間において考察するか、時間において考察するか、すなわち私の外に描かれるイマージュとして扱うか、私自身が実際に行う行為として考えるか、それ次第のように思われる。
だが、いっさいの先入見を退けてみると、ここに選択の余地はないことがすぐに気づかれる。すなわち、私の視覚そのものも、AからBへの運動を1つの不可分な全体として把握しており、仮に視覚が何かを分割するとしても、それは通過されたと想定される線分であって、線分を通過していく運動ではないのである。

実際の行為者にとって、AからBにいたる運動はそのように分割可能な瞬間瞬間の集合からなるものではなく、ひとつの感覚で統合されたものであるはずである。そして、それは運動そのものがひとつであるからこそ感覚的にも統合されるのだ、として、ベルクソンはいわゆる心身問題への解決を行う。

いずれにせよ、ここでは線を引くこと、それを言語化し、意味を創造することで、間違った認識〜理解が生じてしまっているのだ。

運動を知覚する感覚の要件を、運動を再構成する精神の作為物と混同してはなるまい。感覚は、それだけに任せておくかぎり、実在的運動を2つの実在する停止点のあいだに、1つの堅固で分かたれざる全体として、われわれに示している。分割は、想像力の所産である。

線を引くことも、それに基づき言語化することも、あくまで人間の想像的操作である。
それがデザイン的な行為として、ある問題を解くのに有効な場合もあるから、線を引くことも言語化することも人間にとって大事な活動なのだが、それでもそれはきわめて人工的な行為であるがゆえに「完璧」であることなどなく、時にそれは誰かや何かや世界全体を苦しめる悪にもなり得るのだということを、僕らは認識しなくてはならないのだと思う。

歴史の空間的モデル化と時間的モデル化

そんな観点で、いま読み進めているジョルジュ ディディ=ユベルマンの500ページを超える大著『残存するイメージ―アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』は、線分と類型的言語による固定的なデザインに対するオルタナティブな思考の可能性について考えさせてくれる示唆に富んだ作品だと感じている。

たとえば、以下のような形で、接続詞「と」によるモデル化を問題視するところなど、本当に読んでいて目が覚める。

「生と死」、「栄華と退廃」という循環する自然的モデルにかえて、ヴァールブルクは、断固として自然的でも象徴的でもないモデル、つまり歴史の文化的モデルをうちだした。そこでは時間は、もはやビオモルフィックな諸段階になぞらえられるものではなく、地層、混種の塊、リゾーム、特殊な複合体、予期せぬ頻繁な回帰、そしてつねに挫折する目的によって表現された。さらに「再生」、「よき模倣」、古代の「平静な美」という観念的モデルにかえて、ヴァールブルクは歴史の幽霊的モデルを主張した。そこでは時間は、もはや知識のアカデミックな伝達にならうのではなく、諸形態の強迫観念、
「残存」、残像、再来によって表現された。つまり、非知、思考されざるもの、時間の無意識によって。

ここでユベルマンは、「と」を用いて、空間的に対象を配置してみせるモデル、それはここで問題となっているリニアに年表的な配置で語られる歴史のモデルに対して、空間的な視点からみればより不可視な部分としての運動や潜在性(リゾーム!)などの時間的なものも含めてみようとする、新たな歴史のモデル化の試みを、ヴァールブルクの美術史に対して見いだしている。

空間的ではなく時間的にみようとする点で、先に紹介したベルクソンの思考に重なる。
そして、空間的に思考することによる固定化の罠にはまることなく、時間的・運動的・生成的に思考することによる不可視性、幽霊性を容認する態度は、デザイン的な思考と行動では逃れることのできない、ひとつの問題解決が新たな問題を生むという連鎖を回避できる可能性を指し示している。

画像3

始原からははじめない

さらに、この新たな歴史観をヴァールブルクと共有する歴史家として、ユベルマンは、ドイツの歴史家ブルクハルトをあげる。

「すべての学問的研究は始原からはじめることができるが、歴史だけは例外である」。

これはブルクハルトの言葉だが、読んで「かっこいい」と思った。始原からはじめることのできない歴史という思考法。つまり、それは線分ABのような始点と終点をもつ線的な思考を回避しているわけだ。ゆえに、それはデザインを回避している。

そのあとにはこう続く。

過去についてわれわれの抱く観念は、やがて国家を論じる場合にわかるように、たいていはわれわれの精神の構築物か、われわれ自身のたんなる反映にすぎないからだ。一民族あるいは一種族に妥当することが、他の民族や種族に妥当することは稀である。そしてわれわれが始原の状態だと信じるものは、すでにかなり発展した段階にほかならない。[……]局所的な歴史が一見他のものよりはるかに理解しやすく見えるのは、目の錯覚、われわれの側のより著しい性急さゆえである。そしてそれは、大いなる盲目をともなうことである。

「一民族あるいは一種族に妥当することが、他の民族や種族に妥当することは稀である」。そうした一見わかりやすい図式的な見方で、ものごとにレッテルをはって見てしまうのは、あくまで「目の錯覚」なのだ。

ここでブルクハルトが言っていることは、まさに性差別、人種差別、宗教的対立、移民問題など、現在のさまざまな問題に通じる話であるし、つまり、線引きに基づく話だ。そこには既存の線引きに従属してしまい、個々の事象に個々人が自分の力で向き合うことのできない民主主義的な態度の不在がある。大いなる盲目だ。

そうした盲目から自由になるためにもブルクハルトやヴァールブルクの歴史は、始原からはじまる空間的な線表の上で歴史を語ることを避ける。
個々の事象に向き合うために、あらかじめ引かれた線表の上に、それぞれ異なる意味を有するはずの事象を無理やり当てはめてしまうのを避けるのだ。

自分のことで活動する

既存のデザインに頼ることなく、個々人がみずからの主体性をもって民主主義的に社会を変化させ続ける。

その観点では、ひとつ前に紹介した岸本聡子さんの本からひとつの事例を紹介して終わりにしたい。

若者が主体となったイギリス労働党の草の根運動モメンタムが主催する「The World Transformed」というイベント話だ。

このイベントはアーティストやミュージシャンたちにも場がひらかれていて、若い世代ならではのクリエイティブな空気に包まれる。まさに「フェス」ということばでよびたくなる雰囲気なのだ。
だから、それまで政治にあまり興味のなかった一般の人たちも数多く押しかける。参加者は5000人にものぼった。

本ではそう紹介されているTWTというイベントは、モメンタムの活動において、さまざま労働運動や若者たちによるムーブメント、研究者や政治家、NGOなどによる国際的な連帯をつなげてさまざまな政策的ディスカッションができる場となっているという。

「モメンタム」の主催するTWTは、毎年、労働党党大会と同時並行して開催されるため、すぐ近くの党大会の会場から、労働党の政治家たちもTWTに積極的に通ってくる。だからTWTに参加する若い世代の人々も、忌憚なく政治家たちと意見を交わすことができる。
政治家たちも、草の根の人たちから現場の苦しみや声をじかに聞き、彼らの要求のなかから生まれてくる政策案の重要性に気づいていく。
このようにTWTは、草の根の社会運動と政治がまさにつながる場として、大きな役割を果たしているのだ。

こうしたつながりにおいて僕が大事だと思うのは、この議論と活動の場において、一般の人びとも自分ごととして政治に参加できていることだ。

そのなかで、一般の人たちも、自分自身の生活に直結する政治的な事柄について、まさに「自分のこと」としてなんとか変えていきたいという意識をもつようになっていくのだ。
自己決定権というのは民主主義の根幹だ。だからこの場で、死にかけの民主主義がよみがえっていると言っていい。

まさに、いま僕らがさまざまな環境・社会課題解決を目指すためにも真剣に考えなくてはならない民主主義的な態度がここにはある。

ここにあるのは、従来の歴史的記述やデザインされた仕組みでは描いたり言語化したりするのがむずかしい、生きた活動だ。

こうした民主主義的な態度にひとりひとりがなれるように、僕らは社会の固定化や形式化につながりやすい空間的・言語的思考を回避する方法を身につける必要があるだろう。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。