見出し画像

だったら神を殺さなければ良かったのに

悲劇がいまほど嫌いだと感じることはないかもしれない。

死が持っているあの不安をそそる性格は、人間が不安に対して抱く欲求を意味している。この欲求がなければ、死は人間にとって容易なものと見えるであろう。人間は苦しんで死ぬことによって自然から遠ざかり、幻想上の、人間的な、芸術のために作り成された一世界を生み出す。私たちは悲劇的な世界に、わざとらしい人工の雰囲気のなかに生きている。「悲劇」がこの世界の、この雰囲気の完成された形式だ。動物にとっては何ごとも悲劇的ではない。動物は、自我の罠にはまらない。

ジョルジュ・バタイユの『内的体験』から引いてみた。

「動物にとっては何ごとも悲劇的ではない」
まったくもって動物になりたい気分だ。

やたらと悲劇的なものに満ち溢れた、この息苦しさのなかで人間的に暮らすなら動物のように、死など意にも介せず生きたいと思う。

何が見えているのだろう。
不満を募り、他者の責任ばかりを問い、魔女狩りじみた詮索をする人たちの目にはいったい何が映っているのだろうか。
僕にはそれが見えない。

いっそのこと、夜の闇がすべてを見えなくしてくれると良い。
そんなにも決断からみずからを遠ざけたい人ばかりなら、僕はいっそのこと闇の方に加担する。

夜なくしては、誰にも決断を下すことはできない。贋の光のなかで甘受することにとどまる。決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ。
決断のなかには秘密がある。最後の最後に、夜のなかで、不安のなかで見出される、もっとも内密な秘密がある。だが夜も決断も手段ではない。いかなる形においても夜は決断の手段ではない。夜は夜自身のために存在するか、あるいはまったく存在しないかだ。

どうして、そんなにまで決断を先送りにするのだろう?
死の確率に目を向けることをいつまでも避け続けようとするのか?

誰が何の責任を取れると思って、この人類に何が可能だと思って、何の責任を誰に問うているのだろうか。
自分にできないことを、どうして他人ができるかのように信じて、それを誰もやってくれないことをそんな批判したりできるのだろうか?

人類なんて、まったくもって万能には程遠いというのに。

ほとんど無能ともいえる人間に何かを期待し、とりようのない責任を追及して疲弊するくらいだったら、神を殺さなければ良かったのに……。


基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。