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もってる知識は多いほどいい

同じものを見たり、同じ話を聞いたりしても、人によってどう認識し何を理解するかは大きく異なる。
解釈は人それぞれだというが、では、何がその解釈の違いを生んでいるのかと言えば、各自がもつ情報量・知識量の違いだろう。ありきたりの解釈ばかりが生まれてくるとしたら、そこに集まる人たちの知識の幅がきわめて常識的な範囲に狭く収まってしまっていたりするからなんだろうと思う。

解釈の違いは、価値観の違いから生じるとみることもできるが、その場合も何が価値観をつくっているのかというとどんな情報や知識を持っているか(あるいは、それをどんな状況、タイミング、文脈で仕入れたかということも含めて)が大きく関わるのだと想像できるから、あまり変わらない。

となると、どれだけ情報、知識を自分のなかに保有できているかが、人が生きていくうえで自分が見たり聞いたり体験したりする事柄の認識や理解を大きく左右することになっていると言って良さそうだ。それはしいては人生を生きる判断にも影響を与えること必至なのだから、おそらく認識、解釈、判断の選択肢の幅は広ければ広いほどよく、ゆえに情報や知識の保有量は多ければ多いに越したことはないのだろう。

知識を詰め込む

いまはもう検索すればすぐにいろんな情報に辿り着けるのだから、詰め込み型の教育は不要だという論がある。

僕もわりと最近まで、そうだよねと思っていた。
でも、そうじゃないよなと、いまは上記の理由から考えてる。

もちろん、知識を詰め込むのを「教育」という方法でやらなくても良いというのはいまも変わらずそうだと思っている。

ただ、それは知識の詰め込みが必要ではないということを意味しているのではないというのは、先にも書いた理由からも思うことだ。
たしかに誰かに詰め込んでもらう必要はないし、そんなこと学校でやる必要はない。でも知識の詰め込みそのものは各自が自分でずっとやり続けておかなくてはいけないことなんだよな、と思う。

それをやるとやらないのとでは、想像できること、理解できることが大きく異なるし、判断のはやさや可能さに関わる。ひとつの物事を前にした際に見えるものの量は、身体に詰め込まれた知識の量によって驚くほど異なるはずだ。

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隣接するものに関する知識

知識や情報をある程度持っていないと、わからないことはたくさんあるし、見えない聞こえないことすらある。

知識があるから有意に見える、聞こえることがたくさんある。逆に知識がなかったがゆえに、見えない聞こえないわからないものは判断することができない。いや、判断以前に気にすることもできない、意に会することもできない。

となれば、そのことによってできない仕事の判断、人生の選択というのは山ほど生じるはずだ。機会喪失はどれほどだろう。

仕事と言ったが、自分の仕事に関することしか知識がないと、それでできる仕事も変わってくるはずだ。というのも、すべての仕事はほかの仕事と隣接しているし、隣接する仕事というのは時と場合によって刻々と変わったりするから、それこそ無数にあるといってよい。自分の仕事に関することしか知ろうとしない姿勢はあやうそうだ。

自分の仕事以外の仕事についてもどれだけ知識があるかで、自分の仕事としてできることも大きく変わってくるはずだ。自分の仕事のことしかわからなければ、他の人と関わらない。他の人と関われない仕事と、他の人と関われる仕事では、できることの幅が違ってくる。いや、ほとんどの価値を生む仕事は、自分とは異なる他人に相対する仕事だ。自分とは違う知識体系のなかにある、他人と仕事を通じて関わろうとすれば、その異なる人の知識についても知っておいたほうが理解も判断もできるはず。

知識の範囲は広い

しかも、隣接するのはほかの仕事だけではない。

仕事ではない、人びとの日常生活、政治や経済、さまざまな社会的な出来事、文化、あるいは歴史、科学、芸術や数学や文学、音楽やスポーツなど、あらゆるものが仕事と無関係かというとそうではない。

いや、むしろ、関係そのものも知識であって、そうした隣接に関する知をどれだけ持っているかで、どれだけの組み立てられる話があるか、理解できる話があるかは雲泥の差になるはずである。

話ができなきゃ仕事にならない。

もちろん、できないのは仕事ばかりでもないだろう。

知らなくてよいことなんてあんまりないし、知ろうとしないで得られる知識もそんなにない。興味を持ち、調べ、理解しようとし、自分のなかで知識を整理すること。そういう意識的な作業があってはじめて知は得られる。とくに使える知は。

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知るべきことは外にしかない

知っていることは、これから知るべきことではない。これから知るべきことはまだ知らないことだ。

当たり前のようなことなのに、多くの人はすでに知っていることにばかり目を向けようとして、まだ知らないことを避けようとする。

自分の範囲を限定してしまわないほうがよい。たとえば、自分の専門はこれだとかいうのは後向きだ。どんどんいろんなことを学んでいく姿勢で、そこに広がるものが全部自分の専門に思えるよう、そんな前向きな姿勢が必要だ。

過去にすがりすぎないことが大切だ。自分を知ってもらうというときに自分がそれまでやってきたことだけをベースに語ろうとするのは、イマイチだと思う。それは当然、その時点での自分を形作っているものだろうけど、そんな過去を使って自分をアピールしようとするよりも、誰かと未知の領域をともに旅するなかでいっしょに得る知識をベースにたがいをわかり合おうとすることのほうがはるかに有意義ではないか。そんな風に思う。

自分以外を知らずに何が

だからこそ、日々いろんなことを知ろうと心がけることが大切だ。いろんなものに興味を持ち、いろんなことを調べ、自分のなかで仮説をつくり続けること。仮説があれば、その検証のためにまた別のことを知りたいと思うようになる。その連続性がつくれると効率がよい。

もちろん、すべてが連続してなくてよい。あえてよそ見をして別のものにちょっかい出してみるのもよい。そこからまた別の連鎖が始まるのかもしれないのだから。その意味では知識は別の知識を呼ぶ。知識があれば気づけることも増えるので知る機会がそもそも増える。自然と自分の外に、未知の領域に、目が、アンテナが向くようになる。

そうやって常に自分の外に目を向けること。いま自分のなかにないものに目を向けること。

そういうふうにするしか、他人のことを考えたり、他人のためになることができるようになったり、ユーザー体験をデザインしたり、誰かにワクワクするような気持ちになるようもてなしたり、あるいは、誰かを傷つけないようにしたり、環境が悪化していくのをとどめたりすることなんてできっこない。

サステナブルであるっていうことは、そういうことからはじめるべきなんじゃないだろうか? あまりに知ってることが少ないのに、その少なさをどうにかしようともせずに、この先何を持続できるというのだろう。


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