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消費性

GW明け、仕事に復帰して2日過ごした。9日間もヨーロッパで仕事から完全に切り離された時間を過ごたあとなので、まだ完全には普段の仕事モードに頭も身体も戻りきっていない感じがある。

その中でこの2日間、面白い気づきもあった。
一言で言えば、人生、仕事だらけで、それ以外の暮らしの部分ってほとんどないのではないか?ということだ。

家事であれ、趣味のことであれ、なんらかの目的をもって、その目標達成のための生産的行為を行っている以上、それは全て仕事ではないか? 目的の達成という生産のために行う手段としての行為。それはいわゆる仕事と呼べるだろうと思う。であれば、たとえ遊びのためであろうと、遊びに入る前のいろいろな準備なども仕事に入るし、その遊びさえ、何か意図があってそれを得るためだしたら仕事といえるかもしれない。

そうだとすると残った生産的でなく行う行為って、眠たくなって気がつけば寝てしまうといったような生理現象によってドライブされるようなごく一部の限られた行動をしている時だけなのではないか?と。

そう気づいたのは、いわゆるライフとワークについて考える機会が仕事上あってのことだが、いわゆるオンオフという考え方って、あらためて考えるといったいなんだろう?と思う。
落合陽一さんの「ライフアズワーク」という言葉を待つまでもなく、今の世の中、だいぶ前から人生の大部分をワークに占領されているのではないかと思っている。生産性ばかりが問われ、活動の意味が問われることが普通になりすぎている。
仕事とは何か? 暮らしとは何か?ということを考える機会があって、そんなことにあらためて気づいたのだ。

同時に、それに気づけたもう一つの理由は、GW中、生産的なことはほとんど何もせずに過ごすことができたからだ。唯一の例外と言えるのは、noteの記事を2本書いたことだけだろう。それ以外は差し出されるものをひたすら消費して過ごしていた。いわゆる生産のラインから切り離された言葉もろくにわからないドイツで、塩っぱすぎる料理さえ拒むこともできずに消費して過ごした。

こういう消費的な時間の過ごし方だけが、ライフアズワークの時代に仕事だらけの時間を過ごす方法なんだろうと思う。僕はお酒を飲めないので、ダメだが、泥酔する時間などもそうなのだろう。

人間は仕事をしなければ、飢えと寒さに委ねられるのだが、仕事をしなければならないこの昼間の世界ほど、夜の神聖さにそぐわないものはない。天の無数の星々は仕事などしない。利用に従属するようなことなど、何もしないのだ。しかし地球はすべての人間に労苦を求める。人間は終わることのない仕事のうちに疲れ果てる定めなのである。

と、バタイユは『有用性の限界』て書いている。

また、こうもバタイユはいう。

何の役にも立たないものは、価値のない卑しいものとみなされる。しかしわたしたちに役立つものとは、手段にすぎないものだ。

と。
生産ばかりに占められた人生。ワークしかないことに疑問をもたなくなっているデフォルト状態が異常だと言える。

本当に必要なのは、ライフワークバランスなどではなく、生産消費バランスではないかと思う。消費的なもの、価値を無為に破壊する行為が許容されない、いまの世の中は、詩的なものを明らかに欠いている。

#コラム #エッセイ #仕事

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