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言葉とイメージのあいだの……

ヴァールブルクはすでに1902年、自分の「源泉」探しが、芸術作品をテクストによって説明することをめざすのではなく、むしろ「言葉とイメージのあいだの[人類学的]共本質性ないし本質的共属性の関連を再構築すること」をめざしているのだと記していた。

ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』より。

この「言葉とイメージの狭間で」と題したマガジンの源泉を僕は紛れもなくヴァールブルクに負っている。

そのヴァールブルクにおいては、「源泉」というものは次のように捉えられうるものだったとしても。

ヴァールブルクの人類学のなかに、最終的な運命の純粋な「源泉」として理解される「起源」の記述を探し求めることは、重大なまちがいであるだろう。「原初的語」とは残存の状態でしか存在しない。すなわち、不純で、変装され、汚染され、変形され、さらには相反するものへと反転されることでしか存在しない。それらは、ルネサンスのイメージのなかを他者性のはかない息吹として通過するが、しかしいかなる点においても、みずからの「生来的状態」に対して遊離してはいられはしない。

起源として存在していたのではなく、何度も可塑性をもって繰り返されるニーチェの永劫回帰に似た源泉。

それは「不純で、変装され、汚染され、変形され、さらには相反するものへと反転されること」としてのみ存在しうる。

そう、言葉とイメージのあいだで……。



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