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わからないことを想像する

仕事を進める上で想像力があるかないかは大事だなというのは、いろんな人を見ていて感じること。

ひとつの話を聞いて、どこまでそれに関連することを想像できるか。
その話に関連することで自分が何をやるべきか、何がその話に似ていて参考とすることができるか、それができるなら違う領域ではあるけど、こんなことも可能ではないか、とか。
そんな想像が働けば、話をしてる人にちょっと質問をしてみて、違う角度の情報を得たり、自分が気にしていたことの答えを引きだしたり、相手が自分でも言語化できなかった願望の答えにいっしょに辿りつくことができたりもする。

たぶん、そういう想像力とそれに応じた質問力がファシリテーションには必要なんだろうなと思ったり。

古代の人々の桁外れの想像力

でも、そこで思うのは、やっぱり古代の人々の想像力は桁外れにすごいなということだ。

なんで夜空の星を見て、星座のイメージが浮かぶのか。その想像力というか、隠喩力というかに、僕らは到底及ばない。
そんな飛ばした発想の力があれば、様々なイノベーションのタネを生みだせるだろう。どうやって、そんな隠喩的発想を思い浮かべていたのか。

まあ、「知りたい!」という強い気持ちが想像力を働かせるというのが、今も古代も同じようにその答えなのだろう。知りたい、その秘密を明らかにしたい、という気持ちがそもそもないのなら、想像のための頭の働きにスイッチが入るわけがない。まあ、その意味ではやる気の問題は大きい。次が経験だったり、知識の蓄積量だったりもするが、それも「知りたい」という気持ちがなければ、宝の持ち腐れだ。

だとしても、古代の人々の想像力のすごさは神話の物語などを読むとあまりに僕らの想像力とは質が違うと感じる。世界の成り立ち、あり方をそんな風に説明しようとする類推の力は圧巻だ。
想像力を使命のひとつとして認識したルネサンス期の芸術家たちが古代を復興したのもある意味頷ける。

オウィディウス『変身物語』

その意味ではすこし時代が下った古代ローマの詩人オウィディウスが著した一大叙事詩『変身物語』の神々による変身(あるいは変人させる力)の物語も、古代の人々の想像力の賜物に他ならない。元が神話から素材を採っているから、オウィディウスの完全な創作ではないが、それでも「変身」にポイントを置いたのは、彼が古代の人々の想像力の何たるかをよく理解していた証拠だと思う。

とにかく、この物語では神々の変身あるいは神々によって変身させられる者たちによって、世界に存在するものが何故存在するようになったかが説明される。

自身に恋をしたアポロンの執拗な追及から逃れるため、父神に頼んで自らを月桂樹の木に変身させてもらったダフネは、月桂樹が何故存在するのかを伝えるとともに、詩歌や音楽の神であるアポロンが何故月桂冠を身につけているかも説明する。

さいわい、父ペネイオスの河波が目にはいったので、「助けて、お父さま!」と叫んだ。「もしこの流れが神性をもっているなら、あまりにも恋い慕われるもととなった、わたしのこの美しい姿を無くして、別のものに変えてくださいますように!」
こう祈り終えるが早いか、彼女の手足はけだるい無感覚に包まれ、柔らかな腹部は薄い樹皮でおおわれる。髪は葉に、腕は枝に変わり、たった今まであんなに早かった足はどっしりした不動の根となる。頭も、梢のかたちをとる。輝くばかりの美しさだけが、もとのままに残っていた。

あるいは泉の水面に映る自分の姿に恋をしたナルキッソスが、水面に映る青年から離れなくなり、そのまま水仙(ナルシス)となったという話も、そのナルキッソスが自分自身に恋をする前、彼に恋をしたエコーは与えられた罰のために他人の言うことを繰り返すしかできなかったために、ナルキッソスに相手にされず、叶わぬ恋の悲しみのせいで声だけになり、木霊(エコー)となった話なども、水辺に咲く水仙や、声を返すエコーのことを説明している。

ユノーという正妻がありつつ、神だろうと人だろうと、時には相手が男だろうと、浮気をしまくる大神ユピテルなどは、レダに近づく際には白鳥に、エウロペの時は牛に、ガニュメデスのときは鷲に、さらにダナエの時に至っては黄金の雨に、姿を変えて接近してる。

いっぽう、アラクネが織っているのは、まず、雄牛姿のユピテルに欺かれたエウロペの図だ。雄牛も、海も、まるでほんものとおもえるくらいだ。エウロペ自身は、うしろに残した陸地を見やりながら、仲間たちに呼びかけている風情だ。寄せる波に濡れないように、おずおずと足を引っこめているいる。つぎ、アステリエ。彼女は身をくねらせた鷲につかまえられている。それから、レダ。これは、白鳥の翼のしたに臥している。アラクネは、織り進む。ユピテルが、今度は獣神に身をやつして、美しいアンティオペに双生児を身ごもらせたこと。黄金の雨になってダナエを、火災となってアイギナを、羊飼いとなってムネモシュネを、まだらの蛇となってプロセルピナをだましたこと--そんな場面が加えられていく。

さらにユピテルは、イオーとの浮気の際はヘラーに見つかりそうになり、イオーの方を牛に変えたりもしている。

変身=隠喩

では、この変身とは何かというと、それは結局、隠喩的な力だと思う。まったく遠く離れた2つのものの間に、隠れた類似性を見つけて並べてみせる。その隠喩的な併置が神話における変身に他ならない。隠喩によって、世界の謎を説明しようとする古代の人々の試みが神話における様々な変身の意味なのだろう。

この頭の働かせ方は、科学的な分野における最初の推論と何ら変わらない。その際、隠喩的に用いる対象としての素材が神という力であるか、科学の分野で長い間に蓄積された自然に対する理解を素材として使うのかで、結果的に違ってみえたとしても、自分たちの住む世界の様々な謎を紐解こう、わからないことを知りたいと思う気持ちが類推を働かせる原動力であると意味では同じである。

と、原動力はいまと変わらないと思ってみても、やっぱり古代の人々の類推の働かせ方の違いはあまりに違いとして大きいがゆえに、時折接すると面白い。

『変身物語』には、こんなことが語られる。

どんなものも、固有の姿を持ちつづけるということはない。万物の更新者である自然が、ひとつの形を別の形につくり変えてゆく。わたしの言葉を信じてもらいたいのだが、この全世界に、何ひとつ滅びるものはないのだ。さまざまに変化し、新しい姿をとってゆくというだけのことなのだ。生まれるとは、前とは違ったものになることの始まりをいい、死とは、前と同じ状態をやめることをいう。あちらのものがこちらへ、こちらのものがあちらへ移行することがあるかもしれないが、しかし、総体からいえば、すべては不変だ。

変身の意味だけでなく、想像を呼びこむ隠喩的な離れた二者間のつながりの意味などもこの引用中に言及されているように思う。こちらのものがあちらのものに移動しても不変であるということを見抜く力、それが想像力というものだろう。

自分に想像力が欠けてるなと思う人などは、想像力の何たるかを感じる意味でも、オウィディウスの『変身物語』などは読んでみるとよいと思う。

#想像力 #神話 #コラム #隠喩


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