見出し画像

学ぶことでウェルビーイングに

昔から「教育」というものがしっくりこない。
学校というものを教育の場と捉えることに違和感がある。

というのも、僕自身が自分の人生のなかで「教えてもらう」ことに苦手意識を感じてきたからだ。教えられる形ではほとんど自分の身に知識やスキルが身についてこないように思えるからで、だから授業中もあまり先生の話は聞かずに自習をしていた。
美術や体育などの実習的な授業は、自分でやってみて、コーチング的に指導を受けられるのでそれはよかったが、講義形式の授業はまったくもって学びになるとは感じていなかった。
だから、いまもセミナー形式のイベントにはまるで興味がそそられない。

かといって学ぶことが嫌いだったわけではない。むしろ、どちらかというと学ぶことが好きで、知に対する貪欲さもあった。学校の授業は好きじゃなかったし、宿題もただやらされる系のものは好まなかったが、自分でいろいろ調べたり覚えたりつくったりするのはずっと好きだったし、いまもそれは変わらない。

教えられることには興味はないが、学びは楽しい。

学びは楽しい

世の中には、学びを楽しいものと思える人とそうでない人がいるんだと思う。

後者はたぶん誤解している。
教えてもらうことを学ぶことだと。

そもそも、そんな風に受動的な形でやることが楽しいと感じられるわけがない。楽しいと思えるのは、みずからが能動的にやることであるはずだ。
学びが楽しく感じられる人は、自分から学びにいき、チャレンジしにいくことが常態化している人だと思う。自分から常に新しい知やスキルの獲得、発見が得られていると好奇心が満たされたり、できることや見えること、わかることが増えるのが実感できて楽しく感じられるはずだ。
すくなくとも僕はそう。

教えてもらうのを待つ人

でも、結構な割合で、自分で学ぶという発想がないのか、そういうクセが身についていないのか、学ぶ力がなく、自分を自分駆動で変えていくことができない人がいる。
そうした人は、学ぶことに苦痛や苦手意識を感じ、みずから積極的には学習しようとはせず、教えられることを待っている。

しかし、教えによって学ぶのは効率が悪い。
そこには必ずコミュニケーションロスが発生し、教える側の言ったことの多くは相手に伝わらず、失われるからだ。自分から学ぶ場合に比べてコミュニケーションが介在する分、非効率になる。

自分で学ぶ場合の多くは、学びたい対象に直接関わる。本を読んで知識を得るというケースは間接的だからそれなりのロスは発生するが、実際に自分でやってみて学ぶという形の学びも多い。そこにコミュニケーションによるロスは発生しない。

誰かほかの人がやったことを話で聞いただけではできるようにならないし、やったこともないことを受動的に聞くだけではそもそも理解するのさえ困難なはずだ。それなのに、座学での教育というのは、その困難を無視しているのか、一方的な伝達になってしまう。せめてその困難を視野に入れて、学ぶ側が自分で体験的に理解することができない不利な面を、学ぶ側に想像させて考えさせるということで理解を促進するような仕掛けなりがないと、学びが発生するはずもないと思うのだが。

教える側も、教えるのを待つ人もそこに気づいていないのではないだろうか。

そんな非効率で益も少なく、大して楽しくもないことに多くの時間を費やし続けさせられれば、学ぶということ(いや、本当はそれは学びになってないのだが)が無意味で苦痛なものと信じるようになっても不思議はない。

学ばないと楽しくはならない

さて、実は、本題はここからだ。

なんで学びについて書いてきたかというと、学ばない人はウェルビーイングに近づくことはできないと思うからだ。

生きるということは基本的に課題に向き合い、それをなんらかの形で乗り越えていくことの連続である。

たとえば、すべての仕事は、なんらかの意味で自分以外のほかの誰か(あるいは何か)のケアであり、他の誰か(何か)に代わってケアという課題解決をそのプロとして行うことで報酬を得ることだから、そこには常に課題に向き合う機会があるのは当たり前である。
この仕事をものすごいストレスを感じながら苦労してやるか(しかも場合によっては苦労したあげく目的を達せられずに余計に落ち込んだり怒られたり)、みずからのスキルや知識を使って普通にこなし、相手に感謝されて嬉しくなったりできるかは、どれだけ学べているかによって大きく差がでる。
さらに言えば、学びによって、自分の好きな仕事、やりたい仕事ができる確率は高まる。学びは仕事の喜びを高めるともいえるし、逆にいえば学びのなさは仕事をすることを苦しいものにしてしまうし、そのこと事態が仕事の体験から学ぶ機会さえ失わせるのだと思う。負のスパイラルだ。

もちろん、有償でやってる仕事だけでなく、生きるうえで行う活動の多くは無償の仕事だとも考えられる。有償の仕事が身近ではない人のケアだとすれば、身近な家族や友人、近所の人に体するケアは無償の仕事だと見ることもできる。もちろん自分自身に対するケアも含めて。
こう考えれば、仕事としてやってない日々の活動もケアのためにさまざまな課題に向き合っていることになり、そこで自分がどれだけ学びによって課題解決のスキルやその実行の楽しみを知っているかで、日々の活動が喜びとなるか、ストレスになるかの差はやはり出てくると考えられるだろう。

学びとウェルビーイング

料理の知識やスキルがありさらに学ぼうとする姿勢があれば、他人のために料理をすることも楽しく思える。それがなければ身近な人に料理をつくるのも苦痛となる。そういうことだと思う。
より良く生きられるようにするためには、学びやチャレンジは不可欠なんだろうと。学びやチャレンジによって、自分でできることが増えることで、自分にとってより良い状態をみずからつくり出せるようになる。逆に、みずからにとって良い状態を自分でつくれる知識やスキルがないと、不満やストレスはたまりやすい。

ウェルビーイングと学びはそんな関係にある。

学びやチャレンジすること自体を楽しめるようにならないと、教えてもらうのを待つのと同じように、ウェルビーイングな社会を誰かがつくってくれるのを受動的に待つしかない。でも、待ってるだけで望みが叶うほど、社会はうまくできていない。
だから、そういう人は社会に対して、不満を感じ続け、文句を言い続けるだけになる。すこしもその人自体の状態は改善されず、もしそのまま何もしなければ状態はむしろ悪化する。
ウェルビーイングの状態を望むなら、みずからそれをつくれるよう、学び、チャレンジする姿勢が必要だし、多くの人がそうすることができる環境があるといい。
それが1つ前の記事「まちをつくる人を、つくる」で書いたことだ。

comfortのもともとの意味

自分たちのウェルビーイングな状態を自分たちでつくること。つくれるようにするために、つくる人を増やすこと、つくる人になること。
そうなるためにも、学びやチャレンジを楽しみ、みずからのウェルビーイングを自分たちで引き寄せられる人が増えていくような機会をつくりたいと思う。

すこし話は逸れるが、ベンヤミンの『パサージュ論』にこんなことが書かれているのが、興味深い。

「Comfort〔生活を快適にするもの〕」の語源。「それはかつては英語で慰め〔consolation〕を意味した(Comforter は、慰め主たる聖霊の形容句である)。その後、言葉の意味はむしろ安楽になる。今日では、世界のあらゆる言語において、この言葉は合理的便宜だけを指す。」ウラディミール・ウィイドレ『アリスタイオスの蜜蜂』1936年

ベンヤミン『パサージュ論』

19世紀はじめ、パサージュに象徴されるような大量生産品が次々登場してできる流行が人びとの暮らしを彩りはじめ、人びとはそれらを受動的に受けとるだけの大衆=消費者となった。「Comfort」という語が従来の「慰め」という意味から、合理的便宜性という意味をまとった「快適さ」へと変化したのはまさにそういう時代の変化のなかでのことだったのだろう。

慰めるという便宜とは異なる価値が、単に日常生活の受動的な損得に関わるものになってしまったのだ。
自分の知やスキルにも左右されるため、否応なくウェルビーイングを享受できないときに機能したであろう慰めが、ウェルビーイングが大量生産の商品という形で外から提供されるものの合理的便宜性に取って代わられたことで、学びやチャレンジもまた、合理的便宜性を装った教育コンテンツに席を譲ったといえるのかもしれない。実際、座学中心の教育システムが生まれ定着したのは同じ時代のことだ。

居住と仕事の切り離し

ついでにもうひとつ『パサージュ論』より。
同じ19世紀に、居住と仕事の場が切り離されたという話を。

ルイ=フィリップの治世〔1830-48〕に、私人が歴史に登場する。私人にとってはじめて、居住の場所が労働の場所と対立する。居住のための場所が室内となり、事務所がその補完物となる。(中略)事務所内では現実的なことがらしか考慮しない私人は、彼の室内においてさまざまな幻想を抱き続けることを求める。この欲求は、彼が自分の事業の関心に、自分の社会的機能について明晰な意識を結びつけようとは思わないだけに、なおさらさしせまったものとなる。自分を囲いこむ私的な環境の整備にあたって、彼はこれら2つの気がかりを退ける。室内という魔術幻灯の世界は、ここから生じる。私人にとって、室内は宇宙そのものとなる。彼は、そこに遠く離れた地方や過去の思い出をよせ集める。彼のサロンは、世界という劇場のボックス席なのだ。

ベンヤミン『パサージュ論』

私的室内と仕事の空間の切り離し。これはある意味、快適さが求められる私的生活とその快適さの元になる大量生産品の生産の場=労働の切り離しだとも言える。さらに言えば、学びやチャレンジとは無関係な無為な生活と、苦しい勉学や訓練の切り離しともいえる。

しかし、本来、これらは決して別々のものでなく、同じものであったはずだ。
仕事の空間から切り離された私的室内にいる19世紀人が「そこに遠く離れた地方や過去の思い出をよせ集め」、みずからの居住空間である室内を「世界という劇場のボックス席」にするのは、それが切り離される前の状態を再現するためだと言えるだろう。
みずから外部化して放棄した、みずからウェルビーイングを手にする力を、売られている大量生産品を買うということで補う形で、室内にウェルビーイングな世界を再現しようとするのは、ねじ曲がった内面化の行為である。

ディビット・シムが『ソフトシティ』で指摘する私的領域と仕事をはじめとする公的領域が分離された都市計画の弊害はまさに19世紀の思考の延長にある問題だ。
それが僕らのウェルビーイングな生活にとっていまなお障害となっている。

充実した生活を送る上で最大の難題は、おそらく日々の生活のさまざまな要素が物理的に分離されていることである。20世紀後半の都市計画は、この点で助けにならなかった。それは、さまざまな活動を分離し拡散させる働きをした。私たちが必要とし求めているものの多くが広く拡散していたら、ローカルに暮らすのは難しい。一戸建ての郊外住宅、工業団地、郊外ショッピングセンター、オフィスパーク、教育機関のキャンパスは、どれも別々の場所にある。

ディビット・シム『ソフトシティ』

外部化されたものを内部に取り戻す

つまり、私的生活と仕事の空間が切り離される前、みずからの欲求を満たすものが大量生産品として外部化される前、先に有償の仕事と無償の仕事として区別した、あまり関係性のできていない人へのケアと、家族や友人などの身近な人のケアもそれほど区別がなかったはずである。むしろ、有償であれ無償であれケアをしあう同士が共同体=コミュニティだったはずで、街はそうしたコミュニティによって形成されたはずである。

そんな風に考えると、結局のところ、ウェルビーイングな状態を手に入れるためには、こうした形で外部化されてしまった、自分たちの生活を自分たちでよくする力をもう一度内面化することが必要なんだろうと思う。

教育コンテンツを含む、外部から手に入れて利用するだけの大量生産品にのみ頼って生きるのではなく、自分たちで自分たちの必要なものをつくることでみずからの生活を満たしていけるようにシフトしていくことが必要だ。
もちろん、これはすべての大量生産品を否定するということではない。ただ、グローバルに売られている商品のうち、ある範囲を地産地消される地元生産の商品に変えたり、地元での共同生産品に置き換えていくことは推進できるといいとは思う。

ひとりひとりでは何もできないのは変わらない。
でも、自分たちの生活をつくる、自分たちの社会をつくるということを少しずつでも自分たちの手に取り戻していかないかぎり、ウェルビーイングな状態を手に入れることはむずかしいはずだ。
僕らはみんな、消費者や大衆という状態を脱して、あるいはそこから切り離された供給者やメーカーであることをやめて、「つくる人=creator」になる必要がある。

学んだり、チャレンジしたりするのは、僕らがつくる人、クリエイターであるために不可欠な姿勢なんだと思う。そもそも理解や思考がなければつくることはできないが、「理解」や「思考」もまた自分でつくるものだ。誰かの理解を鵜呑みにしたり、誰かの思考に頼ったらするだげでは、自分がつくりたい状態はつくれない。いや、「自分がつくりたい状態」とはどういう状態かを描いた像をつくることも、やはり「つくる」ことなのだから。
自分たちのためのウェルビーイングな社会をみずからつくるクリエイターだからこそ、常に学んだり、チャレンジすることを楽しめるようになるといい。

不満ばかりなのは、それをしていないからにほかならない。

基本的にnoteは無料で提供していきたいなと思っていますが、サポートいただけると励みになります。応援の気持ちを期待してます。