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ロンドン・ナショナル・ギャラリー展@国立西洋美術館

ようやく美術展に行けた。
上野の国立西洋美術館で開催中の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」を観にいった。

ほんとにひさしぶりな気がした。最後に観たのが、今年の1月に行った「ハマスホイとデンマーク絵画」展だから半年以上経つ。
いつもなら、ゴールデンウィーク中にいくつかヨーロッパの美術館をまわっていたはずだ。今年はウィーンとプラハに行く予定でいた。それもなく、半年以上、実際に美術作品に触れることなく過ごした。美術作品を観ることへの恋しさはずっとあった。

この美術展自体も、元の3月からの会期がコロナ禍で6月半ばからにずれこんだ。とはいえ、はじまってすぐには行く気分にならなかった。行ってよいのか躊躇していたら、結局、この時期になってしまった。

入場制限されているので、前もって時間を決めてチケットを購入しておく必要がある。
夏休みという名目で1日休んで平日に来てみた。
それでも、まあ、それなりに人は入っていた。
通常の場合なら混み混みだろうから、それと比べたら随分見やすい。ソーシャルディスタンスも自分で注意すれば十分にとれた。

結論からいうと、とても良かった

とはいえ、そんなに期待していたわけではない。
きっとロンドンに行くことはこの先ないだろうから、観ておこうくらいの気持ちだった。
ロンドン・ナショナル・ギャラリーがどんな作品を所蔵してるか、よく知らなかったからだ。

あー、でも、ごめんなさい。
ロンドン、あまくみてました。
そうですよね、大英帝国ですよね。18世紀にはあんなにグランドツアーして、ピクチャレスクの流行があった国ですよね。

イタリア・ルネサンス期の作品から、ネーデルラント絵画、そして、まさにグランドツアー期にイタリアを旅してまわった裕福なイギリス貴族階級の子弟らがお気に入りだった、カナレットやジョバンニ・パオロ・パンニーニ、そして、ピクチャレスクの流行の起点ともなったクロード・ロランらの風景画、さらには、スペイン絵画や20世紀フランス絵画まで、なるほど、この作品ってここに所蔵されてるのかとあらためて知る本などを通じて知っている作品が目白押しだ。

あー、来てよかったと思えた場面が何度もあった。

受胎告知と遠近法

たとえば、来てよかったと思えた作品の1つが、カルロ・クリヴェッリの「聖エミディウスを伴う受胎告知」だ。これ。

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15世紀のヴェネツィアに生まれたクリヴェッリは、初期ルネサンスを代表する画家のひとりで、みたとおり、この作品は、極端に正確な遠近法で描かれている。

『モナリザの秘密』で、美術史家のダニエル・アラスが語ったように、初期に遠近法を用いた画家ほど、その偽りの手法と受胎告知という画題の親和性を理解していたのだと思う。

遠近法は、人間にとって測定可能な、人間が計測することのできる世界の像を構築するのに対して、「受胎告知」とは、フランシスコ会の説教僧であるシエナの聖ベルナルディーノによれば、無限が有限のなかに、測定不可能なものが尺度のなかに、やって来る瞬間です。「受胎告知」はしたがって、遠近法をその限界とその表象可能性に向き合わせる特権的な主題であり、15世紀において、何人かの画家やいくつかの知的集団は、それを十分に利用したのです。

人間が計測可能な世界である遠近法的な世界のなかに、神による受胎という無限の次元が入りこむさまを画家は如何に描くか? 
アラスがその際、例に挙げていたのは、このクリヴェッリよりさらに前の14世紀のアンブロージオ・ロレンツェッティの「受胎告知」などだが、このクリヴェッリの作品もまた空から建物の壁をすり抜けてマリアの頭に刺す光線が有限と無限の世界をつなぐ工夫としてみられる。画面下で果実がフレームをこえて外に飛び出している様も、この遠近法の世界が偽りのものであることを明確に伝えている。

そんな作品の実物をはじめてこの目で観れた。
そして、思ったより大きい。
ルーヴル美術館ではじめてチマブーエの「荘厳の聖母」を観たときと同じような感動を覚えた。

展示の最初のほうに、このクリヴェッリの作品を見つけただけで、あー、来てよかったと思えた。

グランドツアーとピクチャレスク

カナレットやクロード・ロランが描いた風景画とかもいい。

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このカナレットによる「ヴェネツィア:大運河のレガッタ」はとても良かった。
ヨーロッパでも何度かカナレットの作品を観たが、この作品で描かれた何人かの人が着ている黒と白の衣装がカーニヴァルのそれであり、当時グランド・ツアーでヴェネツィアを訪れるイギリス人が楽しみにしていたのも、そのヴェネツィアのカーニヴァルだとわかったのは今回この作品の解説を通じてだ。

観ながら思いだしたのは、高山宏さんの『近代文化史入門 超英文学講義』という本だ。

そこで高山さんは「近代の問題は、まったく同じレヴェルで、旅行の歴史として語ることができる」と書いている。ヨーロッパで旅行が比較的自由にできるようになるのは、1660年以降だという。
またしても、1660年代
最近「リヴァイアサンと空気ポンプ/スティーヴン・シェイピン+サイモン・シャッファー」で紹介したとおり、ボイルの実験に代表される英国王立協会の成立も1660年だ。
この時期に近代がはじまる。
「ピューリタンが勝って、政情が落ち着いただけではなく、たとえば旅の芸人たちを苦しめてきたヴァカボンド(放浪者)取締法が解除された」のこともあって、旅行が増えたと高山さんはいう。

そこでイギリスに起きた流行がグランドツアーだ。

グランド・ツアーの旅人たちは、主にイタリアに行った。そこから帰ってきた金持ちたちが描かせる肖像画にはきわだった特徴がある。まず、「どうだ、おれはイタリア旅行ができるのだ」と威張ってみせる。1枚の例外もなく、肖像の背景には空間に窓に見たてた穴を開けて、イギリスにあるはずのない風景を描かせている。

今回展示されていたバトーニの「リチャード・ミルズの肖像」もこうした流れのなかにある作品のひとつだろう。

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この作品の場合、イギリスに帰ってきたあとに書かれたのではなく、イタリアにいるときにイタリアの画家に描いてもらっている。

イギリスに帰って肖像画を描いてもらうときの背景に用いられたのが、カナレットやクロード・ロランの描いた風景画だ。特に、実際には存在しない理想の風景を描いたロランの作品は人気があったという。

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この「海港」と題された作品も、古代風の理想の風景が描かれている、これぞ、ピクチャレスクという作品だ。

ふたたび高山さんの言葉を引こう。

クロード・ロランの名前は、皮肉な道具に残っている。クロード・ロラン・グラスという鏡である。イギリス版お宝鑑定団番組を見ていて、ときどき見かける。直径が20センチぐらいの楕円形の手鏡で、真ん中が高くなっているために、広角で景色をうつす。一種のパノラマをつくるための鏡だと思っていただきたい。しかも箔の取りかえがきく。こんな奇想天外な鏡、世界中に例がない。この鏡があれば、ロンドンのギラギラ陽の照った真夏の景色でも、イタリアはラーマのセピア・トーンの夕暮れの光で見ることができる鏡なのだ。旅のスケッチャーたちはその楕円形の鏡に映る風景を見ながらスケッチをした。

やがてはスケッチしたり、肖像の背景に描くだけでは飽きたらなくなり、ロランの絵をそのまま自邸の庭に再現しようとする貴族たちもあらわれた。イギリス式風景庭園のはじまりである。

そんなことを思いながら、このあたりの作品を観た。

エブリマンの肖像画

あとは、サイモン・シャーマの『レンブラントの目』を読んだとき、たくさん肖像画を描いたレンブラントの作品のなかでも、この絵が好きだなーと思ってた1枚にも出会えたのも嬉しかった。

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レンブラント、34歳の自画像である。
描かれたのは1640年。まあ、なるほどである。イギリスで起ころうとしていたこととの同時代性を感じる。互いに17世紀初めに東インド会社を設立した国同士だけある。

シャーマの言葉を引こう。

レンブラントはエヴリマンだった。
エヴリマンは罪人たる誰彼であるばかりではなかった。道徳劇中に現代の変容神(プロメテウス)の役どころなのであり、名が示すように、出会う誰しものペルソナを身につけることができた。レンブラントとはこのエブリマン を彼の時代に近付けて蘇らせた変容者である。モデルたちの皮膚の下に入りこんで(これは歴史画の人物たちと同様、肖像画のモデルに対しても行われる)、どう見られたいと思っているのかを、手袋みたいに裏返しに理解しようとした。

おととしミュンヘンのアルテ・ピナコテークでみたレンブラントの作品「キリスト降架」でもまさにこれ(モデルたちの皮膚の下に入りこんで)が行われていて、キリストの身体を十字架から下ろす人たちのなかに画家自身が紛れこんでいる(青い帽子のようなものを被った人物がレンブラントだ)。

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そんなことを思いだしながら観ていた。
この作品のキリストの身体の貧相な描き方なんて、まさにレンブラントらしい。すこし歳上で同時代のネーデルラントを生きたルーベンスが描く同画題のキリストの身体が劇的かつ神々しいのに比べると対照的だ。それは単純にカトリックの画家とプロテスタントの画家との違いというだけでは説明しきれないように思う。

あと、この34歳の自画像の頭の部分とか左腕の部分とかがそうなんだけど、レンブラントの描き方って、印象派を思わせるようなところがある。晩年になればなるほどその傾向がつよくなり、当然、当時は受け入れられなかった。
シャーマの本にもこうある。

こうした古典主義一辺倒の族はあのルーベンスを見てさえ、少し過剰で芝居がかっていると言い、石を肉にしようという傾向が少々過多だと言って難じたくらいだから、レンブラントはもっと遥かに悪である。いわれなく倒錯的、かくも醜の描写に執着し、自然の中にあるもの全てを画題にすべしなど言い、暗さや曖昧にとり憑かれていて不健康きわまるというわけである。

でも、僕なんかはレンブラントのそういうところが好みだったりするけど。

おもしろい発見がいろいろ

と、こんな風に、僕にとってはひっかかりどころ満載のとても楽しめる展示だった。肖像画も、風景画も、おもしろい発見がいろいろあった。

この19世紀の画家ジョン・コンスタブルの「コルオートン・ホールのレノルズ記念碑」も、同時代の「フランケンシュタイン」とか「吸血鬼ドラキュラ」とか思い起こさせるイメージで、感激した。
あるいは、それはロマン主義的に自然を人間の手の届かぬ魔術的な存在とすることでかえって、それを消費しやすくした、この気候変動の世の中を準備した元凶ともいえるまやかしゆえに人を魅了する力をもっているのだともいえる。

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書きたいこと、いろいろ思いつきすぎる展覧会なのだ。
東京での会期は10月18日まで。おすすめです。





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