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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#アート

オラファー・エリアソン ときに川は橋となる@東京都現代美術館 / Olafur Eliasson Exhibition at MOT

この記事が400記事目らしい。 なんかうれしい。 さて、東京都現代美術館で開催中の「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる」展に行ってきた。 これも開催前から楽しみにしてた展覧会。 はじまるかどうかのときにコロナ禍に突入。 当初の会期が終わるころにはじまるかたちで会期が変更されて、2ヶ月あまり。 様子見してたらこの時期に。 そして、昨日、混雑を避けるため、平日の早めの時間を狙って行ってきた。そのために仕事は休みにして。 計画してたとおり、人もそう多くなく、ゆったりリ

アート&サイエンス

「2017年04月27日」だからおよそ3年前に別のところで書いた記事だけど、いまの気分にもあっているので再掲。 リサーチだとか研究だとかというと、何かとっつきにくい特別なことのように感じられるかもしれない。 だけど、何かを知りたい、理解したいと思い、そのことについて調べることや、調べてわかったことを元に自分で納得できるような解釈を見つけだすことは、人生において決して特別なことではないはずだ。 自分がわからないと思ったことに立ち向かい、わかるための様々な具体的な行動をすること

クリスチャン・ボルタンスキー回顧展 Lifetime @国立新美術館

この感じ、知ってる。 国立新美術館で開催中のクリスチャン・ボルタンスキー回顧展「Lifetime」の展示でのメイン一室ともいえる撮影不可の大きな展示空間での作品を観ながら、そう感じた。 それはフランスの大聖堂の地下にあるクリプトの雰囲気そっくりだった。 地下礼拝堂でもあり、地下墓所でもあるクリプト。あのすこし恐怖感を感じるクリプト内部に入ったときの雰囲気に、ボルタンスキーのメイン展示空間の雰囲気はそっくりだと感じた。 そこは死体なき死のイメージの安置所だった。 死体な

神を迎え神送る道行の向こうには人新世が……

日本の家屋には、ハレの出入り口とケの出入り口があるという。 ハレの出入り口のほうは庭から入って縁側を通って座敷に入るそうだ。 門のそばの庭木戸から池などをめぐりながら庭をあるき、靴脱石から縁をとおって座敷にはいるのが正式の玄関だった。 と『日本人と庭』で上田篤さんが書いている。 縁側に靴脱石があるところ、それがハレの出入り口。 しかし、それは……、 いいかえるとそれは神迎えをし、また神送りをする道行である。あるいはその家の祖霊がやってきて、去る道でもあった。

幻惑のローマ

どうやら行く場所がマニアックな傾向があるようだ。 前からローマに行く機会があれば絶対に行きたいと思っていて、今回颯爽と出かけたヴィッラ・ファルネジーナ・キージも、観光客らしい人は比較的少なかった(途中で団体客がやってきたけど)。 それに比べて、ローマ滞在4日目にしてようやく足を運んだスペイン広場の人の多いこと。これは楽しくない。 当然、ゆっくりお目当てのラファエッロ作《ガラテア》をみることができたキージ荘のほうが楽しかった。 異教の神々を嗤うさて、ヴィッラ・ファルネジー

サン・ピエトロ広場の虹の下で

ローマに旅行中。 すでに3日目の夜。 今日はヴァチカンを訪れ、ヴァチカン博物館とサン・ピエトロ大聖堂を見学した。 博物館に行く途中に雨になり、途中、降ったりやんだりした後、サン・ピエトロ大聖堂を見終わって、広場に出たところ、虹が出ていた。 しかも、うっすらだが、二重になった虹。小さな奇跡。 本物の凄み奇跡といえば、そのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの有名な作品《ピエタ》は凄かった。 先に、ヴァチカン博物館でレプリカを見てしまったせいもあるのかもしれないけど

詩がない

詩を感じないものには、心が躍らない。 もちろん、いちいち、いろんなものに心が躍っていたら、まともに日常を生き抜いてはいけない。だから、心躍るものはそこそこの頻度であらわれてくれればいいとは思ってはいる。 けれど、本来、心躍らせてしかるべきものと面と向かったときにさえ、「あ、詩がない」と感じてしまうと、やはり、むむっとなる。 そこでの詩人の不在は、もはや罪のレベルだと思う。 詩であるということ詩とは、ある意味、神話的な歴史を語る言葉なんだと思っている。 ひとつ前のnote

キュレーションと創造

いまの時代に必要な創造的なビジネススキルの1つがキュレーションする能力なのではないかと最近思っている。 さまざまな人々のさまざまな創造的な成果や活動を集合させ、それらを組み合わせたものを見せたり、語ったりする。そこから個々の要素それぞれからだけでは生まれない、ストーリーやメッセージを生みだすキュレーション的な創造。 そうした創造的行為が、このさまざまな問題が幾重にも複雑に重なりあった時代における問題解決やムーブメントの創出には必要なのではないかと思うからだ。共創なんて言葉が

デザインと言語化2

デザインや美術作品などの視覚的なものは言葉にしにくい。 そんなことを時々聞く。 「観る者の精神状態」により「作者の意図に呼応しながらも、観る者の介在によってはじめて完全に存在しうる」、「曖昧で、不確定的で、多義的で」あるような美術作品(主に絵画)について考察した『潜在的イメージ』で、著者のダリオ・ガンボーニは、こう書いている。 観る者が(物質的対象としてではなく生成プロセスとしての)芸術作品の生成に貢献している事実を重視するとき、「潜在的イメージ」という概念は、視覚芸

マルセル・デュシャンと日本美術/東京国立博物館

フリードリヒ・キットラーは『ドラキュラの遺言』の中で「今日われわれの誰もが承知していながら、決して口にだしては言わないことがある」と前置きした後、口に出すのではなく文字にすることで、こんな指摘をしている。 書くのはもはや人間ではないという事態がそれである。 キットラーの念頭にあるのは、コンピュータによる書字行為である。1993年出版の本のなかでの25年前、四半世紀前の指摘だ。 コンピュータがなければ脱構築もありえなかったと、デリダはズィーゲンの講演会で語った。文

想像力の乏しさ

「我々の情に触れようと思えば、想像力に照らして本当というものより、物としてリアルなものこそが必要なのである」。 これは19世紀イギリスの演劇督視官ウィリアム・ボダム・ダンなる人物の当時の演劇のあり方を評した言葉の一部。 ダン督視官は「我々の祖先が心眼を以て見ていた幻が、我々には可触のかたちに具体化しているのでなければならない。全てが心にではなく目に触れるものでなければならない」と嘆いているが、なるほど、1851年のロンドン万国博覧会を1つの象徴的な出来事としてその後展開して

発明の方法の発明

「誰しもほっとしたことだが、2つの文化をめぐる論争がやっとしずまった」。 20世紀が誇るアメリカの文化史家ワイリー・サイファーの名著『文学とテクノロジー』はそうはじまる。僕がいままで読んだ本のなかで10本の指におさまる、読んでよかったと思える1冊だ。 あの高山宏さんが「先哲サイファーの『文学とテクノロジー』が全く読まれていないのにほとんど絶望して、最近とにかく復刊企画を通した」と書いて絶賛するその1冊を、僕はその復刊の恩恵をあずかって読めたわけである。 さて、冒頭紹介した

無意味

踏みつぶされ、吐きすてられ、ポイと脇に追いやられる、無意味なガラクタ。 逆からみれば、ガラクタをガラクタにするのは、踏みつぶす、吐きすてる、脇に追いやるという、意味があるかもしれないものを無意味化する操作があるからこそなのかもしれない。もし、そうした操作がなければ、ガラクタは無意味なガラクタではなく、意味を有する何らかの品物だったのかもと想像できる。 昨今の社会にとって意味あるものばかりを生み出そうとする傾向とは真反対の、そういう無意味化の操作は、人間よりも、機械や、自然が

ドラクロワの屍体

ドラクロワが好きだ。 あの何とも猥雑な熱気に満ちた匂いをプンプンと漂わせる作品に惹かれる。 昨日、紹介したパウル・クレーのことが頭で好きだとすれば、ドラクロワは生理的に好きだと言える。 そんなドラクロワの企画展がパリのルーヴル美術館で開催されていたので観た。 ドラクロワの作品をこれだけ集中して観たのははじめての体験だ。 結論から言えば、最高に面白かった。 ドラクロワを一言で言えば屍体愛好家ではないかと思う。 例えば、有名な「民衆を導く自由の女神」だって、そうだ。 タイ